徒然なるままに神頼みとして、大本、天理教と、多少の観光気分も味わいながら訪ねてみた。
とはいっても、まだ2つの団体だけなのでありますが。
それらはどちらも神道系だ。
なら、ここで仏教系も1つレポートを書いてみたいと思うのであります。
少し前の話になるのですが、2月の11日の話でございます。
新興宗教の阿含宗が京都の花山というところで「星まつり」というイベントをやっていたのです。
これに参加してまいりました。
この阿含宗については、凡は普通の人よりも多少は詳しいのでありまして、何とならば、以前に入信していたからであります。
でも、20年ぐらい前に止めてしまった。
その止めた理由については、今回は触れないでおきたいと思います。
それにしても、止めたのに何で見に行くのかということなのですが、1度は入信していたこともあり、止めたけれども、その後はどうなっていくんだろうという、これは単純な興味があって、毎年1回行われる星まつりには、最近は時間があれば見に行くこともあるのです。
阿含宗と言う教団は、管長である桐山さんという人が、1代で築き上げた教団で、凡がいた時はかなりの勢いがありました。
管長さんがカリスマ的な存在だったんですね。
そんな1人のカリスマ的教祖が、これは致し方ないことなのですが、年老いてきた時に、どうなって行くのかという興味があるのです。
絶対的なカリスマがなくなったときに、そしてカリスマ性のない後継者しかいなくなったときに、教団はどうなるのか。
とはいうものの、まだ管長さんは、今回のイベントにもメイン参加ではあります。
凡が、この教団に興味を覚えて入信にまで至ったのは、そんなカリスマ性に惹かれてのことだ。
当時の桐山館長は、密教とヨガを結び付けたり、今はメジャーなチャクラなどの言葉もいち早く広めたり、兎に角、宗教業界の先端を走っていた。
そして、念力を開発するということも押していて、凡もそんな念力を手に入れたいと考えていたのです。
とはいうものの、結果として、凡はそれを手に入れることもなく、また、信徒でそれを手に入れたという人にもあったことがない。
1部の他宗教の人からは、詐欺師呼ばわりされることもある。
修行をすればガンの因縁も切ることができると言われているけれど、確か管長の奥さんはガンで亡くなられたはすだ。
説明と合わない。
奥さんは副館長なのですが、それで因縁が切れないなら、凡に切れるはずがない。
また、警察に捕まったりもしてるかな。
なので、詐欺師と言われれば、そうかもしれない。
とはいうものの、凡はそういう意見については、詐欺師大いに結構と言いたい。
もし桐山館長さんが詐欺師なら、天下無類の詐欺師だ。
清貧だけを良しとしない凡にとっては、それはそれで面白いと思う。
止めても凡は、人間桐山館長は好きなんですね。
という前置きはさておき、当日のレポートであります。
会場へは、JRの京都駅から送迎バスが出ている。
凡は8時30分の最初の便に乗る。
星まつりというのは、全国から集められたゴマ木を焚き上げるのですが、やっぱり点火するときが見どころだ。
そして、会場に着いたなら、会場へとつづく山の道を上っていく。
しばらく歩くと、急に開けたところに着く。
ここが会場だ。
凡は、慣れた足取りで、護摩をたくのを見る桟敷のようなところに移動する。
それにしても、人が少ない。
凡がいたときは、そこに立ち止まることができないぐらいに人がいた。
でも、今日はじっと1か所で立ち止まって点火の儀式を見ることができる。
そして、護摩壇の横に積まれたゴマ木も少なく感じる。
さて結構待って、いよいよ儀式が始まった。
式の流れとしては、まずはご神事がある。
これは、阿含宗はもともと仏教なのですが、ある時伊勢神宮の横で護摩を焚くというイベントがあって、それから館長はスサノオノミコトの生まれ変わりだということになって、何かそんな流れで、神様もお祀りするようになったのです。
今では、恵比寿様や大黒天様もお祀りしているようです。
そして、いよいよ管長が結界に入られて、山伏によるいろいろな作法が行われて、待っていた点火となるのです。
それにしても、以前は颯爽とされていた管長さんも、今では足腰が立たなくなって、神輿に乗って入壇される姿や、昔は願文を朗々と読み上げていたのが、たどたどしくなっていたりという姿を見ると、ああお年を召されたなあと思う。
そのあとは、桐山館長による秘密九字というのがあって、凡がいた時はなかった、ブータン様式の護摩修法が行われて、そのあとは、ずっと夕方までゴマ木を焚くのです。
そんな流れをずっと見ていたら、これで結構な時間がかかって、そのあと本堂の方までぶらぶら歩いて見て回ったら、結局2時ぐらいまで会場にいた。
流れとしては、こんな感じで、ほぼ前からと同じだ。
それで、今回の参拝で思ったことを、徒然ままに書いてみたいと思う。
まず、会場で目につくのが、大量のお守りだ。
護摩壇をカギ状に囲むように、お守りやゴマ木を販売するコーナーがある。
そのお守りの数たるや、びっくりするぐらい多い。
あれやこれや、多すぎて迷ってしまう。
気の弱い人だったら全部買わなきゃいけないよ。
それに、お守りのあり方を疑問視している凡にとっては、呆れてため息が出てしまう。
管長に聞いてみたいよ。
本当に、このお守りで救われるのですかと。
(お守りのチラシ。この他にもお守りや加持や、いろいろ)
そんなお守りを、大声を出して売っている信者。
何となく切ない。
そんなことをして徳を積んだことになるのですか。
それにしても、その徳というものが厄介だ。
大本や天理教には、少ししか触れてはいないけれども、何かおおらかさがあったような気がする。
でも、仏教系の団体には、阿含宗以外の教団もそうだと思うのですが、今回は阿含宗についてのみで言うと、本来なら磨かなければいけない魂というかココロを疎かにしている風潮があるように思う。
欲のオーラが出ている人が多い。
凡は欲を大いに出して生きることが人間としての生き方だと思っているので欲については個人的には否定しない。
でも、仏教では欲にこだわることを否定しているはずだ。
でも、欲のオーラが出ているんだね。
それは、仏教の因縁果報の考え方が根本にあって、その考え方を教団の信者獲得に利用しているからこそ、そんな欲のオーラがでてくるのだと思う。
どういうことかと言うと、今の自分が不幸なのは、過去になした悪い行いが今に悪業となって、そのせいで不幸なのだというのです。
その悪業を無くすためには、本来なら、その悪業による不幸を潔く受け止めれば、それで因縁は果たされるのですが、それを回避する方法として徳を積めと説くのです。
詰まりは、「施」だ。
プラスのことを多くすることで、悪業のマイナスを消そうという訳です。
それは、お金のかからない無財の七施といって、人に対して優しい言葉を掛けるとか、いつも優しい笑顔でいるとか、そんな施もあるのですが、1番効果的なのが新しい信者を勧誘することなのです。
何故かと言うと、その教団に入ることを勧誘するのは、その人を根本から幸せに導くことなので、1番の徳と言うことになるわけなのです。
上手くできてますね。
そんな理屈から、入信をすると、しきりに勧誘をするように言われる。
直接に言われなくても、勧誘をしたら、信者にとってはヨダレのでるようなご褒美をもらえたりするのです。
仏舎利のペンダントだったり、特別なものがもらえたりするのです。
なので、信者はみんな、そのプレゼント欲しさに勧誘したりする。
たとえ、他の人のためになるからと、これは本当に本人が信じて勧誘をやっている人がいたとしても、それは突き詰めれば、本人が良くなりたいから、その為に他人のために何かをするという条件付きの他人への愛だ。
なので、そこにはどうしても欲が表れる。
自分はどうだっていい、兎に角、その人の役に立ちたいという無条件で無償の愛ではないのである。
それで徳が積めるのだろうかと思う。
そんでもって、そんな理屈が教団を大きくしていく建前となっているのです。
何かどうも自由じゃない気がする。
そんなことを感じた。
そんな教団でありますが、凡も昔ではありますが、多少の縁もあるわけで、これからの行く末も興味ある訳で、今後を見守っていきたいと思うのであります。
帰路の送迎バスに乗って京都駅まで帰ってきた。
駅の地下のイノダでコーヒーでも飲んで帰ろうかと思ったら満席だったので、そのまま家まで帰ったのであります。
=========================================
平 凡蔵。へのファンレターや
お褒めの言葉は
sansanpopo@tairabonzou.jp
=========================================
コメント
ただただ残念だとしかいえない私も入信してしかも熱狂的に教学を学び梵行なる奉仕に明け暮れたもの…。入信前、悩みに悩み1年以上の勉強もして、そして一大決心をしての入行。霊障が解けた感はなく自身のカルマやチャンネルが切り替わった感はなく、あろうことか悪魔が口を開けて待っていた。お釈迦様の教学を学んだ意義はあったのだろう。救いようのない馬鹿な業の深い人間だったのだ。
ありがとう、匿名希望さん。
匿名希望さんも、以前、入信されていたんですね。
なかなか、修行や、その結果も、思うようでは無かったようにコメントを拝読しました。こういう宗教の評価と言うのは、難しいですよね。どこの教団も万能じゃないし、とはいうものの、他にすがるものが無いから入信する訳だから、ある程度は期待通りに行かないと騙された気になるし。
私は、阿含宗は、どちらかというと、超能力の側面で惹かれるものがあって、入信しました。入信してからは、ちょっと方向が違うなというのがありましたが、何しろ、管長の話が面白くて、それに、何と言っても、あれだけの教団を作り上げた手腕にも憧れたし、今でも、それは変わりなく、大好きなんですよね。
でも、管長が解く教義には、ちょっと違うなという部分が出て来て、結局は、止めてしまいました。でも、面白い経験だったかもしれません。
匿名希望さんは、後悔されているのでしょうか。それだけ、真面目に修行をやってこられたと言う事で、それが報いられれば良いですね。