人はどうして宗教にすがろうとするのだろうか。
本人も気が付かないうちに何かの規範を求めているのだろうか。
現世利益のためだろうか。
或いは、何か漠然とした目に見えないものにたいする畏怖の念だろうか。
昔では、学問の場だっり、権力の場だったり、軍事力の場だったり、もっと具体的な必要性があったのかもしれない。
ただ、言えることは、その宗教が今もなを、形は違っても存在し続けているのは、人がそれを必要としているからだろう。
それは、毎日、毎日、誰もが、人に傷つけられ、人を傷つけ、苦しみ、悲しみ、言葉にできない不安や、そういったものにモダエ苦しんでいる証拠である。
何かに、そして誰かにすがりたいのだ。
凡もすがりたい、、、、誰にって?勿論、みゆきさんにね。
「みゆきさーん。助けてー。」なんてね。
そんなことを言っている人は嫌われますよね。
男子なら、みゆきさんに頼られる人にならなくちゃ。
そんでもって、みゆきさんなんだけれど、これはこんなことを書いちゃいけないのかもしれないけれど、天理教の信者という話を聞いたことがある。
本人も機関誌で「親譲りの天理教」なんて言っているそうなんで、言ってもいいのかな。
そんな天理教の本部に行ってみることにしました。
3月1日のことであります。
先日、大本の本部に行って、これが意外にも楽しかったし、得るものもあったんです。
なので、こんどは天理教を思いついたという訳なのであります。
それにしても、みゆきさんと会えるんじゃないかっていうゼロパーセントに近いドキドキを胸に近鉄電車に乗り込んだのであります。
天理駅について、本部のある方へ向かって商店街を歩く。
すると大きな独特のデザインの建物が目に入ってくる。
これは「おやさとかた」と呼ばれる一連の建物群で、聖地の「ぢば」を中心に四角形の外枠のような配置で作られた病院や学校や、その他の天理教の施設で、今も造り続けられているそうです。
スペインのガウディのサグラダ・ファミリアみたいですね。
それにしても、この建物群はすごくインパクトがあるのです。
しかも、大学や病院などいろんな施設が、このデザインで統一されている。
その姿は、壮大で迫力がある。
歩いて商店街を抜けたところに天理教の本部があった。
まずは中心にある礼拝場にいってみる。
靴を脱いで上がると、びっくりするぐらい広い。
そして、その礼拝場の配置にさらに驚いた。
中央部が四角形の形で、下の方に凹んでいるのです。
これはマイッタ。
何のこっちゃ。
凡の想像をはるかに超えていたので、一旦礼拝場を出て、詰所へ行って見る。
そして、初めて来たのであるけれども、どういう風に参拝してよいか教えてほしいと聞いた。
すると、地図を見せて礼拝場から渡り廊下が出ていて、これを回っていけば、またもとの礼拝場に戻ってくるという。
凡としては、もう少し教えてほしかったのですが、仕方がない、とりあえずは渡り廊下を歩いてみよう。
再度、中央の礼拝場に上がる。
やっぱり分からない。
それにしても、広いのである。
何でも3000畳を超えているそうです。
そんでもって、先ほど書いたように、その真ん中のところが四角形の板張りになっていて、しかもそれが階段状に下に下がっている。
ちょうどピラミッドの下半分を逆さにしたような感じだ。
そして、その下の部分は小石が引き詰められていたように思う。
そして、野菜や果物が供えてある。
そして、そして、さらに奇妙なのが、その中心に1本の柱が立っているのである。
凡は未だかつて、このようなものを見たことがない。
これはお手上げだ。
なので、その部屋の隅に立っていた若いお兄さんに聞いてみる。
すると、その凹んだところに神様がおられるらしいのです。
もともとは、そこは地面で石が積み上げられただけだったのですが、その場所をそのままにして、そのあとに礼拝場を作ったので、もとの神様の場所は凹んだところにあるということだった。
成るほど、やっぱり聞いてみるものだ。
そんでもって、真ん中の柱は、「かんろだい」と言って、人間が想像された元の地点の「ぢば」の目安となるものだそうだ。
なるほど、なるほど。
やっぱり聞いてよかった。
この後も、その若者のような人が随所に立っているので、分からないことがあったら呼び止めて聞いてくださいと言ってくれた。
それは有り難い。
凡は何となく真ん中の神殿を眺めていた。
その構造が何とも不思議で見とれてしまうのである。
神殿は真ん中にあるので、四方から参拝できるようになっている。
すると、女子高生ぐらいだろうか、女の子が入ってきてお祈りを始めた。
するとどうだ。
手のひらを上向けたり下向けたりしながら歌のようなものを口ずさんでいる。
可愛い!
どうにも可愛い!
その姿は神様と遊んでいるようでもある。
でもこれについても、もっと深く知りたかったのですが、その場は疑問のまま流してしまった。
それにしても、その手振りは、美しい。
もし、みゆきさんが同じように歌いながら手振りをしたら、どうだ。
もう、想像しただけで胸がつぶれてしまいそうになる。
みゆきさんの「泣かないでアマテラス」の踊りも或いは、こんなところからきているのだろうか。
さて、教えてもらったように回廊を歩いてみよう。
何でも、ゆっくり歩いたら20分はかかるそうだ。
それだけ広い。
回廊を歩いていくと教祖殿があり、祖霊殿がある。
そして回廊には、回廊を雑巾で乾拭きする人が数名いらっしゃった。
熱心な方のようで、何ともこんな人に良いことがあればいいのになあと思う。
そして、そうだトイレを借りようと思って回廊に下にいったら、これまた綺麗に掃除がされてあった。
男性の小用の方も、便器の正面に当たる廊下の前に1つひとつ同じ間隔でスリッパがキッチリと並べてある。
素晴らしい!
こんなことは、やれと言われてやったんじゃ、ここまで美しくは掃除が出来ないものである。
詰まりは、自らが他の人に気持ちよく使ってもらおうと考えてやったのに違いないのであって、それは本当に素晴らしいことだと思う。
凡も何か申し訳ないような気持ちでトイレを使わせて頂いて、もとの礼拝場に戻ってきた。
さて、とりあえずは神殿を含む施設を拝見することが出来た。
そして、その天理教という教団やおしえの素晴らしさは、そこで奉仕をする人を見ただけで、素晴らしいだろうということは想像ができる。
天理教では「陽気ぐらし」を説いている。
親神様が人間を創造された目的は、人間が陽気ぐらしをするのを見て、神様も共に楽しみたいということだそうです。
素敵ですね。
みんながお互いに助け合って、陽気に楽しく生活をする。
理想の世界だ。
そして、この神殿は24時間、誰でもお参りができるように開放されているそうです。
人を助ける場は、こうでなくっちゃ。
そして、天理教では、「おさづけ」と言って病気の人と神様を取り次いで、病気の回復をお祈りしてくれるということもしているそうです。
その効果については、あえて触れないでおこうと思う。
凡は、お守りというものを、ほとんどの場合、これを否定している。
あんなキーホルダーみたいなものを販売して、「ハイ。これで終わり。サヨウナラ。」なんて、それでいいいのだろうか。
お守りも、このお守りは誰々が魂を入れましたなんてことを明記してほしいと思う。
だったら買ってもいい。
それだけ責任を、お守りというものについては感じてほしいのです。
(おまもりについては、以前にも書いたことがあるので、それも良かったら読んでくださいませ。)
でも、この「おさづけ」は違う。
病気などを治してほしい人と、それを取り次いあげようという人が、お互いに相対して話を聞いて、親身になってお祈りをする。
それは素晴らしいことだと思うのです。
以前にお坊さんの存在意義について書いたことがあるのですが、それに近いものがあると思おう。
そうだ、みゆきさんも「おさづけ」をするんなら、やってほしいなあ。
なんて、またもや不謹慎なことを考えてしまう凡なのであります。
そんでもって、まだまだ天理教について知りたいのですがと若いお兄さんに言うと、商店街に天理教の本屋があるからとのことだった。
初心者用のものを購入。
それから、少し散歩をして駅まで戻った。
それにしても、天理教は黒いハッピを着た若い信者さんを街中に多く見かける。
それは、幼稚園から大学まで、というか天理市という街全体が天理教な訳で、当たり前なのかもしれないが、すごいなと思った。
駅のホームで電車を待っていると、何か若い女性の歌声が聞こえる。
どうも駅の下から聞こえてくるようで、ホームから駅の下を覗くと、高校生ぐらいの女の子が4人集まって、2人ずつ交代で、さっき礼拝場で見たような手振りをしながら天理教の歌のようなものを歌っていた。
可愛い!
どうにも可愛くて、見とれていたら電車がホームに入ってきたのに気がつかずに乗り遅れるところであった。
あの手の動きと歌には、やられるな。
それにしても、天理教もまた素晴らしいものを持った宗教だったと思う。
凡も得るものが多かった。
そして、もしもの話だけれど、みゆきさんに誘われたなら、本人に誘われたなら、これは勿論のこと、入信するのです。
「ねえ、みゆきさん教えて~。」なんて甘えたりしてね。
どうにも不純な動機ではあります。
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