平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(527)時計を外してみたい。

ガスが抜けて効かなくなったクーラーを、それでも暑いからつけっぱなしにしている。
久しぶりのお休みで、あれもしようこれもしようと思っていたのだけれど、ぼんやりと近くに放り出してあった本を眺めてみたり、テレビの放送を横目で見たりと、何もしていない。
それはそれで休日の正しい使い方だと思うのでありますが、残酷である。
こうしてぼんやりしているあいだにも時間が流れているのだ。
この流れているという表現が時間と言うものに対して適切かどうかということを考えると、どうにも考えがまとまらない。
時間が点の連続であるのか、線の延長なのか、或いは本当は時間なんてものは存在しないのか。
ウィラーの法則をとってみると、過去も現在も未来もなくなってしまう。
本当はここのあたりを掘り下げて考えてみたいのだけれど、愚で凡なものが考えるより頭の良い人に考えてもらった方が早いだろう。
それで時間が流れているという表現は、みゆきさんが「時は流れて」という歌を出しているので、時間は流れているという表現で良いということにしておこう。
みゆきさんが言うことは絶対だ。
今、壁にかかった時計を見ると秒針が目盛り1つずつ正確に移動している。
つまりは、凡がいまぼんやりしている間にも時間は流れているのである。
ここで最初に言った残酷である。
この秒針の1回1回のコチコチは、凡が今着実に死に向かって進んでいることを意味している。
であるのに今、この今という時間を無駄にしていることを時計等物は親切にも凡に教えてくれるのだ。
「ありがとう。」
いや、そんなお礼はいいたくない。
そして、また思うのである。
「あ、そんな冗談を言っている間にも時間が過ぎちゃった。」
時間の経つスピードは、その人によって違う。
それは誰でもが普段感じていることだと思うのだけれど、楽しいことをしているときは早く時間が経つし、嫌なことをしている時は時間がなかなか経たない。
そして、同じ1時間でもかなりの仕事をこなしてしまう人もいるし、凡のように無為に時間を捨ててしまう人もいる。
そんなことを考えると思うのである。
「あ、しもた。また時間を変なこと考えるのに使っちゃったよ。」
どうにも時間のことを考えるとノイローゼになりそうだ。
しかしこの際、ノイローゼの事は考えないようにしよう。
それにしても、あの秒針はよくもあれだけ熱心に止まりもせずに動くものだね。
気が付くと秒針の動きを目で追っているんだ。
もう嫌だ。
だからもうノイローゼになりそうなんだって。
いっそ秒針のない時計を買うべきなのだろうか。
とはいうものの、あの時計の分を刻む長針だって、じっと見つめていると微かに少しずつコツコツと動いているのである。
するとどうだ。
秒針を見ないために買った秒針のない時計の長針を今度は見てしまうことになる。
しかも、長針は動きが微妙だからじっと凝視しなきゃいけない。
これじゃ、ノイローゼになっちゃうよ。
もう叫んじゃう。
「誰か、凡を助けてー。」
、、、誰かって誰なんだろう。
誰なの?誰?
いや、この際、この誰かは誰かでいいのかもしれない。
しれないが、誰かなんて曖昧なことをいっていたんじゃ、安心できない。
その誰かはいないのかもしれないからさ。
じゃ、もう1度叫んじゃおう。
「みゆきさーん。助けてーーー。」
とはいうものの、凡の声は届かないだろう。
寂しいね。
というか、長々と書いてきたんですが、ブログを書こうと思ったことは、そんな話じゃないのであります。
昨日の帰りの京阪電車の中でのことなのであります。
凡は仕事帰りに電車の長椅子に座ったのですが、目の前にやせ形の美人が座っている。
見ると左の手首に時計をしている。
小さく薄い文字盤で薄いベルトの時計である。
そこで思ったのは、久しぶりにこんな時計をしている女性をみたんじゃないかなということだ。
最近の女性は、割とガッチリとした時計を文字盤を外側にしている人が多い気がする。
昔から男性が着けているやりかただ。
これはこれでいいのだけれど、文字盤を手首の内側にして、それをそっと見る仕草はどうにも色っぽいものがあったのだけれどなあと、最近見かけなくなったことを残念に思うのは凡だけだろうか。
そんなことを考えたら、みゆきさんはどんな風に時計を付けるのかと思う。
「歌旅2007」のメイキングを見ると、左の手首に外側に向けて着けている。
しかもかなりガッチリとした形のものだ。
たぶん高級なメーカーなのだろう。
とはいうものの、凡は高級時計は知らない。
でも、そんなガッチリした時計が似合っているようにも思うし、何となく内側に着けて色っぽく見て欲しい気もするのではありますが、そんなことは凡が思ってもどうにもならないことだ。
というより、ここでさっきの京阪電車のやせ形の美人の話なんです。
その時に、ふと周りの人を見て見ると、その時間帯にもよるのかもしれないですが、時計をしていない人が結構いるんだということに気が付いた。
女性は着けていない人も昔からいた。
でも、男性もつけていない人がいるのである。
その時に乗った京阪電車の凡のまわりの4人に1人はしていなかった。
その時に思ったのです。
いいなあと。
時間というものに縛られていない。
凡なんか、朝の電車に乗る時も、時計を見ながら早足で駅に向かうのが毎日だ。
そして仕事中も時計を何度も見て、もう帰るだけなのに帰り道で時計を見る。
時間に束縛されている。
そして時計に束縛されている。
小学生の頃は時計が憧れだった。
中学生んなって親戚の人に時計を貰ったときは、なんとも大人になった気分だった。
でも、今は時計を外したい。
時間を気にしないで毎日を過ごしてみたい。
でも、実際には出来ないんだよね。
どうして昨日の京阪電車に乗っている人は時計をしなくても気にならないのだろうか。
知りたいのである。
時計を外して自由になりたいのである。
でも、今日は凡はお休みだ。
とりあえずは今日ぐらいは時計を着けずに外へでてみよう。
そういえば、みゆきさんも分厚い時計をしていたな。
或いは、みゆきさんも時間に束縛されているのだろうか。
時計に束縛されているのだろうか。
なら、凡はみゆきさんに忠告してあげたい。
時間を気にしていたら、ノイローゼになっちゃうよと。
ホント、気をつけなきゃいけないんだから。
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