平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(526)魯山人の美@京都国立近代美術館。

北大路魯山人という人物は、美食家として知られている。
凡も食べることが好きなので、魯山人にも興味があった。
とはいうものの、同じ食べるということに於いては、美味しいものを追及するという魯山人と、ただただ腹を減らしている凡とは雲泥の差があるのではありますが。
そんな魯山人の展覧会が京都であるというので、7月28日にミニボンと行ってきたのであります。
「北大路魯山人の美・和食の天才」京都国立近代美術館。

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入場してミニボンがヘッドフォンで聞くガイドを申し込もうと言った。
凡は、そういうものは今まで頼んだことが無い。
展覧会なんてものは、作品を目の前にして、間違っていても自分の感性で何かを感じればいいと思うからだ。
それに、その解説だって他の人の考えたことであって何も正解とは限らない。
とはいうものの、これも何かの体験であるから、1度はやってみてもいいなと思って申し込んだ。
内容的にはそんな大したことは解説していなかったが、ミニボンと2人で行く時は利点もある。
展覧会に2人で行くと、お互いに興味のあるものが違うから自然歩くスピードも違ってくる。
凡がもう最後まで見終わっても、ミニボンがまだ半分なんてこともあるし、その逆もある。
だから、本来なら展覧会なんてものは1人で行くべきものなのだ。
それが作品と対峙するのにもっとも重要なことだ。
とはいうものの、せっかくの休みだからミニボンと行くこともあって、今回はこのヘッドホンのお蔭でだいたい同じようなスピードで見て回ることが出来たことが、まあ利点と言える。
さて、肝心の魯山人の美だ。
おもに食器を中心に展示してあるのですが、これは仕方がないことなのかもしれないが、少しばかり展示の仕方が気に入らない。
分厚いガラスの中に恭しく作品が置かれている。
一体にこのガラスで仕切るという陳列は好きじゃない。
ましてや、魯山人は器は料理の着物と言ったのである。
器とは、そこに料理を盛って活きるものである。
勿論、芸術的に素晴らしい作品であることは、そうだろう。
でも、もっと直接的に作品と対峙したいのであります。
これが絹本だとか繊細なものだったら、温度や湿度の管理のためにガラスの中で展示する必要もあるだろうけれど、陶器はそんな必要は無い。
それを御大層に分厚いガラスで鑑賞者と仕切ってしまう。
ここに「美術の理解できないバカな庶民は、何も考えずにお上のやることに逆らわずに有難く拝見しろ。」という体制の無言の圧力を感じるのである。
さすが、国立の美術館である。
もし、これが魯山人が存命であって自分の作品の展覧会をやったなら、こんな分厚いガラスで仕切るなんて無粋なことはしなかっただろうと思う。
その辺のところを考えると、やっぱり青山の岡本太郎記念館の展示はすごいと思う。
目の前で作品を見ることが出来る。
そこにはガラスもロープもない。
確かニューヨークの近代美術館では、ものすごく有名な画家の作品であっても、ガラスもロープもなかった。
素晴らしい!
そして、目当ての魯山人の器については、どれも素晴らしいものだった。
ただ、キリがない。
凡には、これを使う器量もないし、その前にお金がない。
この器たちはすべからく素晴らしい。
でも、凡の今住んでいる部屋の御膳には似合わない。
この器に合うテーブルが必要だ。
そして、そのテーブルを設置する部屋が必要で、その部屋にはその器が合うこしらえが必要だ。
そしてその部屋の周りの部屋、台所、ご不浄、廊下、玄関、そして庭などが必要だ。
「えーっと、そうなりますと。パチパチパチ(そろばんをはじく音)。これほどが必要でございます。」
、、、不可能なり。
そう思うと、何だかキリがないと思うのであります。
これだけじゃない。
たとえ最高のこの器を使うための家という箱を作っても、さらに上の器と箱が欲しくなるのが人間という生き物だ。
最高を知った瞬間に知る更に上の最高。
キリが無いね。
魯山人はそのキリが無い道を貪欲に進んで行ったんだからスゴイね。
それは尊敬に値する精神だ。
凡なんか始めから諦めているんだから、同じ食べることが好きだって言っても、同じ土俵で話をすべきでないのではある。
そんな魯山人なんだけれど、料理に関する文章も沢山残していて、そこで味の素について触れている。
その内容は誰でもが想像に易いと思うのだけれど、使う事を否定しています。
でも、それは料理人に対して言っているのではないかと思うのです。
「魯山人味道」という本の中の「料理の妙味」に、料理は食材の持つ味を活かさなければいけないと書いているのですが、その1部にこうある。
「塩、醤油、酒、味醂、砂糖、味の素、かつおぶし、昆布、煮干しなどは、味付料としていずれもよき味の持ち主ではあるが、、、、」とあるのである。
つまり、味の素を塩や醤油と同列の味付料として書いている。
その文章を読んだ時に、凡は魯山人が身近に感じたのです。
魯山人も料理を職業とする人が味の素を使うのを否定したのであって、味の素それ自体は認めていたのではないかと思うのです。
凡は味の素というものが好きだ。
それは人間が美味い物を追及するなかで科学の知識で作り上げたものだからだ。
化学調味料なんてとバカにする人も多いけれど、醤油や味醂やそんなものも、年代をさかのぼっていくと、無い時代もあった。
それが誰かが醤油や味醂を発明して使うようになった。
皆が美味いと思ったからだ。
味の素も同じだ。
それが発明されたんだから、大いに活用しようではないですか。
そして、いずれ味の素を超える化学調味料が発明されることを切に願うのです。
それを振りかけるだけで、高級料理店の味をアッサリと越えてしまうような化学調味料。
それこそが、文明の進化というものであり、人間が追及して行くべきものである。
そんなことを考えながら展覧会を見終わると出口で関連のグッズを販売していた。
何気なく見ているとミニボンが、こんなのあるよと言った。
「かやみゆき袋」

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またしても、みゆきさん縁。
思わず買ってしまった。
これは「なみふく」のみゆきさん宛てに送ろう。
それにしても、みゆきさんはどんな食器で毎日食事をしているんだろう。
ご飯茶碗はどんなの。
お箸はどんなの。
御湯呑は、お皿は、鉢は、どんなの。
そんなことが知りたいのであります。
キティちゃんのお茶碗だったりしてね。
、、、そんなことはないか。
でも、あったらそれはそれで可愛いな。
と、魯山人展に来ても、何ともみゆきさんラブなのであります。
美術館を出ると、雨上がりの道が、すごい熱気で歩くのも嫌になる。
ぶらぶらと三条方面にあるいていくと、「紙嘉 前田商店」という文房具のお店があって入ってみると、どうにも素敵なお店でインクを買ってしまった。

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パイロットの「色彩雫」”iroshizuku”
凡の買ったセットは、「朝顔」「深海」「山葡萄」だった。
このシリーズのインクの色は24色あるようです。
セットはあらかじめ決まっているのですが、単品で買うとなると、どの色にしようか相当悩みそうですね。
年配のお姉さんが丁寧にインクを紙で包んでくれた。
包むという行為がこんなに人を優しい気持ちにしてくれることを始めて知った。
包むんだ瞬間、中のものが大切なものに変わる。

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凡の大切なもの、、、みゆきさん?
そんな大きな紙はないか。

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美術館から見える風景は、どうにも素敵だった。
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