今日は、中島みゆきさんのオールナイトニッポン月イチが、一旦、お休みする最後の放送がある日だ。
みゆきさんの歌じゃない、おしゃべりの声の聞くことのできる機会が、また減ってしまう。
でも、それはいい。
寂しくはあるけれども、みゆきさんは、みゆきさんの好きなことをしてくれるのが、それが大切だから。
なので、少しばかりセンチメンタルになって、電車の中などで、アイフォンに入れたDVDなどを見ることが多くなった。
それで、先日、金環蝕だったか、あの泣かないでアマテラスを歌うみゆきさんを見た時に、気を失いそうになった。
美しい。
何を見て美しいと感じたかというと、あの衣装だ。
シースルー。
凡は、女性の衣装の中で、1番好きなのが、シースルーだ。
もちろん、他の衣装にも好きではある。
でも、シースルーは、特別だ。
そう思って、改めて他のDVDを見ても、みゆきさんシースルーは特別に美しい。
詰まりは、スペシャルにビューティフルということだ。
いや、やっぱりビューティフルではない、そんな薄っぺらなものじゃなくて、ここはやっぱり美しいと表現すべきだろう。
ライブ・イン・ロサンジェルスの時のピンクのシースルーなんてどうだ。
もう、これ以上の美しさは存在しないんじゃないかと思ってしまう。
もちろん、女性の服装の中で、他にも好きなものがある。
ミニスカートなんて、これは男性なら誰でも好きだろう。
いい。
あれは、いいよね。
ただ、大胆に足をニョッと出した、その姿は、やや健康的な部分もあって、こころが動かされるところまではいかない。
白いニットのワンピースなんて、どうだ。
凡は、好きだ。
あれは、いいよね。
身体のラインが、そのままニットに反映されて、そして、それが均整の取れた体つきじゃないほど、なにかエロティックに見えてしまう。
しかし、あれもまた、こころを動かされるという点では、まだ弱い。
どうして、これほどまでに、シースルーが好きなのだろう。
肌を、隠しているようで、隠していないところだと、これは想像に易い。
写真でも、少しぼやけている方が女性は綺麗に見える。
昔、カメラのレンズに息を「はーっ。」と吹きかけて、レンズを曇りガラスにして、すぐに写真を撮ると、女優さんの写真のように、綺麗に見える絵が撮れた。
あれに、似ているのだろうかと思ったが、これもまた違う。
輪郭がぼやけた写真は、確かに綺麗に見える。
短所消えて、顔がボンヤリ光っているように見えるのだ。
それは、霧や雨の中で、女性をみるようなものだ。
情報量が少なくなって、それを補おうとして、頭の中で、綺麗を作ってしまう。
よく女性が美人に見える条件として、「夜目、遠目、笠の内」という言葉ある。
夜だったり、遠くだったり、笠を被っているときだったり、少し相手が見えづらいときに、綺麗に見えてしまう。
しかし、シースルーは、これとは全く違うのだ。
透けてはいるが、布だから、対象物、この場合、相手の顔や、肌の情報量は少なくなっているかもしれないけれど、しかし、その布を通しても、対象物の輪郭は、ハッキリと見えるのである。
生地の薄さにも依るけれども、普通のシースルーなら、その布を通して、対象物がハッキリと見えるのだ。
ここが、ぼやけているという写真や、夜目遠目笠の内とは、違うところなのだ。
じゃ、どんな理屈なのかと考える。
そういえば、御簾というものがある。
昔の高貴な女性は、前にすだれが掛けてあって、直接には顔を拝することは出来ないという、そんなシーンを時代劇で見たことがある。
すだれもまた、シースルーの布のように、隠しているようで、また透けている。
すだれの竹は、シースルーの布の糸と同じだろう。
そして、すだれも、シースルーも、その間に空間がある。
ただ、すだれの方が、相手が見えづらいか。
それを、凡なら、じーっと見つめるだろうね。
そのすだれの奥の美人をね。
凡が、御簾の向こうの美人を見つめているところを想像したら、ある言葉を思いついた。
「のぞき」だ。
御簾の向こう側をのぞく凡。
その表情は、ニンマリとして、口元がゆるみ、目が垂れている。
どうにも、こうにも、気持ちが悪いじゃないか。
しかし、そうなんだと気が付いた。
シースルーも、布を通して、その下の、肌をのぞいているんだ。
透けた布を通して、みゆきさんの肌を見つめている。
ああ、何ともハシタナク、オゲヒンな事でありましょうか。
でも、それが凡なのでございます。
詰まりは、鍵穴と同じ理屈に繋がっていく。
鍵穴という小さな空間を通して、その先の相手を見ているのだ。
白い木製のドアに、真鍮のドアノブ。
そして、その下にある鍵穴を、凡は、片膝をついて覗いている。
手には、じっとりと汗をかき、両手の指でドアノブを持っている。
小さな鍵穴の向こうには、みゆきさんがパジャマ姿で寝ている。
ゴクリと凡の喉仏に落ちた唾液を飲み込む。
すると、みゆきさんは、目が覚めてベッドの横に座るね。
そして、おもむろにラジオ体操を始める。
凡は、吹き出しそうになるのを必死でこらえる。
ラジオ体操が終わったら、今度は、ラジオ体操第2を始めたよ。
だって、みゆきさんだもの、その辺は、真面目なんだな。
ラジオ体操第2が終わったら、パジャマを脱ぐね。
それはそうだろう、着替えなくちゃいけないもの。
パジャマの上着を脱いで、、、、。
ゴホゴホ、もう凡は限界にきて、咳をしちゃう。
「誰?」とみゆきさんは、胸を押さえて言うだろう。
凡は、古典的な猫のモノマネをして逃げて行く。
と、妄想の中でも、最低な凡でございました。
しかし、この鍵穴からのぞく気持ちと、シースルーを見る気持ちは、どうも似ているのではないかと凡は、想像するのでございます。
薄い布を通して、その奥の肌をのぞくという理屈でね。
もちろん、みゆきさんのシースルーは、最高だ。
とはいうものの、他の人のシースルーもまた、これはいいものだろう。
夜の街を徘徊すると、シースルーのお姉さんに出くわすことがある。
あれは、いい。
いいよね。
とはいうものの、みゆきさんのそれとは、遥かに違うものがある。
薄い布を通して、夜のお姉さんの肌に見えるのは、エロチックだけだ。
それも良いのだけれど、みゆきさんは、違う。
勿論、薄い布を通して見えるみゆきさんの肌もエロティックだ。
とはいうものの、それだけじゃないんだな。
みゆきさんの肌には、穢れの無い無垢な清らかさも見えるんだ。
みゆきさんの肌には、気品のようなものも見える。
みゆきさんの肌には、力強さも、か弱さも、温かさも、涼しさも、何というか、世の中の、素敵だと思える要素が、全部見えるんだな。
そこが、夜のお姉さんや、他の人のシースルーとは違うところなんだ。
そう思うと、みゆきさんにとってシースルーとは、みゆきさんという上等なものを包む優しい透けた布や紙のようなものかもしれない。
デパートなどのフルーツ屋さんで、上等なメロンや、何しろ上等なフルーツには、白い透けた薄い紙で包んである。
凡は、食べたことが無いけれどね、そんな上等なフルーツは。
あれと同じなんじゃないのかな。
みゆきさんという、上等なフルーツを包む薄く透けた白い紙、それがシースルーだというわけだ。
だったとしたら、みゆきさんはもう、全身をシースルーという上等なものを包む透けた薄い布で包んみたいぐらいだ。
もう、身体を隠す服なんて必要ない。
無垢の、そのままのみゆきさんを、これは裸っていう意味なんだけれどね。
いや、もちろん、そこは、凡だって、みゆきさんの大切な部分は、そのままって訳にはいかないからね、そこは勿論、隠すっていうことなんだけれど、全体をシースルーで包むんだ。
隠すのは、柿の葉っぱ辺りか。
それこそ、最高の女性である証拠となる訳だ。
素晴らしいじゃないか。
それが、みゆきさんだ。
、、、、ゴホゴホ、またもや、凡は真面目な気持ちで書いてはいるけれども、何とも凡のはしたなさが出てしまいましたでしょうか。
取り敢えずね、みゆきさんのシースルーは、スペシャルで美しいのであります。
ただ、言いたいのは、それだけ。
後は、今日の最後の月イチを、しんみりと聞くだけであります。
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