平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(771)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(273)

みゆきさんの白目は絶品である。
この発見については、今までに何度も書いてきた。
けれども、甘かった。
甘かったなと、思った。
本来、目という人体の器官は、物を見るという点に於いては、黒目しか必要としない。
白目は、まったくもって不要なものだ。
更に言うなら、物を見るには、黒い部分も必要なくて、水晶体と網膜だけで良いではないか。
顔の左右に、ちょこっと穴が開いていて、そこに水晶体があれば、それで物を見るということの全てが事足りるのである。
しかるに、白目が存在するという理由は、何なのだろう。
その白目に、相対した人に、美しいと思わせるためであるとしか考えられないのである。
神様が、何かの悪戯で白目を作った。
お互いに白目を見た男女が、惚れたとか、フラれたとか、そんなことで、人間を右往左往させておいて、それを天上から見て笑って暇をつぶすために作ったに違いないのである。
神様なんて存在を引っ張り出してきたのは、ダーウィンの進化論では説明のつかない器官だからだ。
その神様の白目の仕組みを、密かに紐解いて、武器に使ったのが、みゆきさんなんだ。
ネットでも、DVDでも、世に存在するみゆきさんの画像や映像を見てみると良い。
すべての、みゆきさんは、白目を意識してカメラに映っている。
普通のタレントなら、前を向いて取るところを、みゆきさんは、やや横斜めに向かって視線を流す。
すると、カメラの方向には、自然と白目が正面にくるのだ。
計算された、美しさが、そこにある。
或いは、みゆきさんは、計算をしていなくて、本能で美しく見られる方法を会得しているのかもしれない。

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(シャングリラより拝借)

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(一会より拝借)
そして、他の人にも白目はあるけれども、みゆきさんの白目だけにこだわるのは、みゆきさんの白目ほど、凡のこころを虜にしてしまうものは、他に知らないからである。
おそらく、凡だけでなく、気が付いてはいないけれども、みゆきさんの白目の虜になっている人は、沢山いるだろう。
そんな白目を、凡は今まで、黒目との対象で、白目と言うものを書いてきた。
上の説明でも、白目を説明するのに、黒目をまず登場させた。
白目と黒目の2つである。
2つということは、即ち、それは相対的であるということを示している。
黒があるから、白がある。
なので、もし黒の魅力が小さくなれば、白目の魅力は大きくなり、黒目の魅力が大きくなれば、白目の魅力は小さくなる。
相対的な美であるから、そうなるだろう。
しかしだ。
みゆきさんの白目を見ていると、そんな不安定なものじゃない。
いつ見ても、それは美しいのである。
どうしようもなく美しい。
こんな美しさが、相対的なものだというのか。
凡には、永遠に、不動の美しさであるとしか思えない。
他の人の白目とは、レベルの違う白目であるからだ。
本当の美しさは、絶対的なものであるべきではないだろうか。
どんな天変地異があっても、美しくそこに存在する。
それが、みゆきさんの白目だ。
絶対的な白目。
そして、それが絶対的な美しさ。
詰まりは、みゆきさんの白目は、絶対的な美しさなのである。
今まで凡は、「みゆきさんの白目は美しい。」と書いてきた。
「みゆきさんの白目」は、「美しい」である。
詰まり、みゆきさんの白目、イコール、美しい、ということは、2つが同じという意味である。
「同じ」だ。
でも、同じという言葉には、2つが、という意味を含んでいる。
詰まりは、相対的なのである。
絶対的なものは、1でなきゃいけない。
「不二」でなきゃいけないのである。
「みゆきさんの白目、即、美しい。」とならなければいけないのであります。
みゆきさんの白目と美しいが、一体でなくてはいけない。
みゆきさんの白目と美しいで1つ。
なので、これからは、「みゆきさんの白目」と書いただけで、それは即、「美しい」という言葉なのであります。
ということは、言葉として、これを使う時は、こんな使い方もできる。
美術館などで、「ねえ、ねえ、このモナリザの表情。これって、みゆきさんの白目よねえ。」とか。
レストランでも、「わあ。この料理って、見た目も味も、みゆきさんの白目だわ。」とか。
若い子なら、「このピアス、チョーみゆきさんの白目なんだけどー。」とかね。
或いは、「やっぱり、富士山は、みゆきさんの白目だ。」とかね。
みゆきさんの白目、即、美であるから、こんな使い方も出来るかもしれない。
とはいうものの、みゆきさんの白目という言葉を使って形容される対象物も、所詮は、相対的な美しさでしかないので、みゆきさんの白目という絶対的な美しさで形容されるのは、チト、形容される対象物にしてみれば、荷が重いかもしれないね。
まあ、みゆきさんの白目という形容詞を使っても、大丈夫なのは、富士山ぐらいかもしれない。
みゆきさんの白目は、絶対的な美しさであるから、その上もないし下もない。
唯一、ただ、爽やかに、穏やかに存在しているのである。
だから、老若男女を問わず、誰でもが、みゆきさんの白目に魅了される。
そこには、職業の貴賤もないし、人種の違いもないし、社会的地位も関係ない。
苦しんでいる人も、悩んでいる人も、喜んでいる人も、どんなこころの状態の人でも、優しく包んでくれる。
みゆきさんの白目に触れるものは、すべて、癒されて、解放される。
それは、みゆきさんの白目が絶対的な美しさであるからだ。
絶対的なものであるから、すべての人に受け入れられ、日常の相対的な価値判断や、こころのしこりを開放していく。
そして、この「美しさ」という意味の中には、優しさや、温かさや、思いやりや、そういった、すべての美しい感情も含まれている。
そればかりでなく、もっと感覚的な、ジャスミンのようなウットリする匂いや、すべすべとした肌ざわりや、ふわふわとした温もり、心にしみる音や、踊りだしたくなるようなリズム、ずっと眺めていたい故郷の山や、或いは、子供のころの路地裏、甘くて甘美なチョコレートや、お母さんの玉子焼きの味、そんなもの全部を、この「美しさ」に含めたい。
そんな「美しさ」が即、「みゆきさんの白目」なんだ。
誰でもが、こころをトロカセテしまう。
凡は、白目は神様が作ったとしか考えられないと書いたけれども、この白目ばかりは、或いは、悪魔が横からちょっかいを出して、最後に付け加えたのかもしれないと思う。
だって、もう、みゆきさんの白目を見ていてたら、メロメロで、グニャグニャで、トロトロで、ヘロヘロで、グッチャングッチャンのベロンベロンで、、、、もう、何がどうなっているのか、脳みそが、もう味噌汁になっちゃってる。
人をして、こんな状態にさせるのは、これは悪魔の仕業としか考えられないだろう。
でも、今は、その悪魔さんに、「みゆきさんの為に、白目を作ってくれて、ありがとう。」と長い手紙でも書きたい気分なのであります。
と、白目を作ったのが、神様なのか、悪魔なかのかは、置いておいて、凡が、みゆきさんの白目は、絶対的な美であるということを考えるに至ったのは、先日まで読んでいた本の影響だ。
柳宗悦(やなぎむねよし)さんが書かれた「南無阿弥陀仏 付心偈」(岩波文庫)という本である。
柳宗悦さんという人は、民芸運動で、陶器などの「用の美」を唱えられた人で、思想家であり、哲学者でもある人というか、多才な人だったようです。
この「南無阿弥陀仏」という本は、仏教関係の雑誌に連載されたものなので、もう少し解説が欲しいなというところもありますが、この人は、坊さんではないので、その意味では、解りやすい流れで書かれていて、非常に面白かったです。
ただ、読むのに時間が掛かった。
それと、本の内容は、他力という考え方の流れを書かれていて、法然から、親鸞に発展して、それが一遍に至るまでの、南無阿弥陀仏の捉え方が説明されていて、よく解った。
というか、今までは、凡は、他力の考えは、法然から、親鸞へ発展して、そこで完結したと思っていたのですが、さらに、一遍が、それを発展させて完結させたということを教えてくれた点で、凡には、非常に有意義だった。
そんでもって、この本を読んで、、南無阿弥陀仏というものの絶対性から、ヒントを得て、それが、みゆきさんの白目の絶対的な美しさに繋がったのであります。
ひょっとしたら、みゆきさんの白目は、南無阿弥陀仏なのかもしれない。
他力を説く浄土真宗では、南無阿弥陀仏と称えたら、即、阿弥陀様がお救い下さるという。
みゆきさんの白目も、それを見るときは、即、魅了され、癒されてしまう。
或いは、恋に落ちてしまう。
ここに同じ力が働いていないだろうか。
柳宗悦さんは、この本で、南無阿弥陀仏は、「それ故六字は空手受け取らねばならぬ。」とも「それ故六字をわが心、わが智、我が念で受けてはならぬ。六字を得るとは、ただ得ることでなければならぬ」とも「称えるのは只称えるのでなえければならぬ」とも書かれている。
ここに、絶対的な「不二」の考えを知った。
ということは、みゆきさんの白目も、それを見るのに、何もこころに思うところがあってはならない。
ただ、見る。
ただ、みゆきさんの白目を見る。
これが正しいみゆきさんの白目の見かたである。
とはいうものの、凡は、みゆきさんに恋している愚かなものである。
そんな理屈も、愚かの前には、釈迦に念仏。
なもので、これからも、みゆきさんの白目を、可愛いなとか、素敵だなとか、そんないろんな思いを持って、見つめてしまうだろう。
言葉にしたって、「みゆきさんの白目」という形容詞を使うに値するものも皆無なので、これは形容詞としては使わずに、「みゆきさんの白目は美しい」と書くだろう。
だって、もう、みゆきさんの白目が、素敵で、素敵で、素敵なんだもの。
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みゆきさんの白目の美しさについては、このブログ以降、折に触れて、書いておりますので、お時間がありましたら、ぜひ、覗いてみてくださいませ。⇒⇒⇒
https://tairabonzou.jp/201210_article_2_html
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