平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(744)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(253)

11月21日(月曜日)。
いよいよ、ステージの始まりだ。
幕が上がると、中央の舞台の階段の上で歌うみゆきさんが目に入る。
もう、この瞬間から、ダメだ。
大好きで、大好きな、みゆきさんが、実物のみゆきさんが、そこにいる。
そこにいるんだ。
確かに、間違いなく、そこにいる。
そこから、降りて来てステージに立つと、1番近い時で10メートルぐらいだろうか。
ただ、いつも思うのだけれど、照明が強いせいと、スモーク的なものを焚いているせいで、少し実在度が低下している。
もう、スモークもなしで、照明もスポットライトをなくして、全体を明るくしてやってくれたら、どんなに素敵だろうと思う。
明るいステージで、はっきりと見えると、きっと最高に美しいと思う。
まあ、それは仕方ないので、置いておこう。
さて、今回の夜会vol.19「橋の下のアルカディア」について、凡の見たことを書いておきたいと思う。
まず、ステージが始まって、気が付いたのは、展開は、一昨年のものと、ほぼ同じだ。
それほど大きな変更はない。
それが解ったら、もう見る対象は、決まった。
みゆきさんだけだ。
たとえ、中村中ちゃんが、ステージの右端で歌っていても、凡はステージの左側で、何もしていないみゆきさんを見ていればよい。
だって、内容は、一昨年のステージを見て知っている。
だから、みゆきさん以外は見る必要はない。
なので、ストーリー展開が変わっていないのは、ある意味、良かったと思った。
変わった内容は、凡は、音楽はそれほど詳しくはないが、歌の編曲がところどころ変わったのと、新たに付け加えられたパートがあるということか。
それよりも、何よりも1番に変わったのは、中村中ちゃんの役だ。
一昨年より、より露出度がグンと上がった。
そんでもって、歌や踊りも、それに合わせてセクシーに、かつ激しくなっている。
警備員役の石田匠さんと絡むシーンも、石田さんに体をからませたりね。
そんなシーンの中でも、中ちゃんが、石田さんに向けて、寝ころんで脚をパカッと大開きするダンスシーンがあった。
凡は、声に出して笑うことはしないけれど、大いにウケたのであります。
なのだけれど、会場はシーンとしてたな。
大阪だったら、絶対に爆笑のシーンだったのに、おしかったな。
それと、中ちゃんの衣装がセクシーで、ミニスカートなんです。
ミニスカートで綺麗な脚も露わにセクシーダンスを踊る。
素敵だと思う。
でも、「中ちゃん、ごめん。」とこころの中で叫びながら、凡の目はずっと、中ちゃんじゃなく、反対側にいるみゆきさんを追っかけていた。
ステージの右側で、中ちゃんが歌う。
その左端と言うか中央の左の水晶宮のお店で、みゆきさんが、水晶玉を拭く仕草をしたり、掃除をする仕草をしたり、壁を拭いたり、椅子の位置を直したり、そんな動きばかりを見ていた。
だって、凡はみゆきさんを見るべくして来ている。
今は、みゆきさんを見る時間なのである。
しかも、その仕草が可愛いんだから、仕方がない。
ステージの上のみゆきさんは、たとえ演出であっても、やっぱり笑顔が可愛いかった。
過去世で、みゆきさんが、ぬいぐるみの「すあま」をあやすシーンでも、ときたま見せる表情や、強盗が石田さんを追い回すシーンで、スーツケースの現金を持って喜ぶ笑顔も、いちいち挙げていたらキリがないのですが、それらの、どのシーンの笑顔や表情もが、素敵で、素敵で、可愛くて、可愛くて、それは、どうしようもなく、凡は、ただただ、みゆきさんの顔に見とれていたのであります。
凡が、ことのほか見とれてしまったシーンがある。
それは、呑んだくれのラヴレターだったか、一夜草だったか、どうだったかな、みゆきさんの姿を追いかけることばかりに集中してたので、何の歌だったか印象に残っていないのだけれど、舞台の上の方に作られたセットで、模型店の九曜さんの父親か祖父なのかが歌うんだけれど、って、まったく覚えてないのは、不思議なんだけれど、兎に角、そっちは見てなかったからね、その舞台のセットの上の方にいて歌っている。
それで、みゆきさんが、ステージの左の端に座るんだ。
片足をオーケストラボックスに投げ出して座る。
それで、舞台の上の方にあるセットにいる男性とデュエットするんだけれど、そのシーンが素敵なんだ。
その時は、スポットライトも、暗い色のスポットライトで、みゆきさんの表情も、やや判然としない。
なのだけれど、それだけに、顔や髪が、夜目遠目笠の内じゃないけれど、って、これは良いたとえじゃないけれど、今言いたいのは、良い意味なんだけれど、顔や髪が、ミステリアスな感じで、これまた美しいんだ。
それに、暗い分、身体の形や、座っている時のフォームの美しさが、より引き立つのであります。
もう、メロメロだ。
最高なのであります。
それでもって、歌い終わって、最後は、照明が少しずつ落ちていって、暗くなっていく、もう、スポットライトが消えるかなという、その一瞬、みゆきさんの暗いシルエットの中で、白い顔と白い手が、ほのかに、ぼんやりと浮かび上がる。
これに、やられました。
いつも、凡はステージ全体を明るくして、もっと、みゆきさんをハッキリと見たいと言い続けている。
それは、まさしく、凡の願いだ。
とはいうものの、今回、暗く消えていく空間にいる、みゆきさんを見て、鮮明に、みゆきさんの存在を、そこに感じたのであります。
ただ目で見て感じる存在感じゃない。
でも、その時空に、みゆきさんが、座っているという、空間的な存在感。
それは、何だろう、空気の振動なのか、或いは、体温のようなものなのか、呼吸のかすかな音なのか、兎に角、ライトが当たっている時には気が付かなかった、顕在意識では意識しないような、無意識の感覚で、みゆきさんを、みゆきさんの実像を捉えているのかもしれない。
暗い空間に浮かび上がったみゆきさんの白い顔と白い手を見た時に、凡は、夏目漱石の「草枕」で、主人公が、熊本の那古井の宿に泊まった時に、夜中に見た女の姿は、こんなだったのかと思った。
今、その文章を読み返したら、「花ならば海棠かと思われる幹を背に、よそよそしくも月の光を忍んで朦朧たる影法師がいた。あれかと思う意識さえ、確かとは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み砕いて右へ切れた。わがいる部屋つづきの棟の角が、すらりと動く、背の高い女姿を、すでに遮ってしまう。」とあった。
或いは、その主人公の見た女の姿は、凡の今見ている、みゆきさんのようであったのかもしれない。
明治以前の電気がなかった時代の夜というのは、どんな風だったのかと想像をする。
日が落ちた暗闇の中で、頼りになるのはロウソクの火だけだ。
或いは、ランプなのか。
どちらにしたって、光量は、たかが知れている。
その暗闇の中に、1人の女性がいる。
ただ、そこに座っている。
暗く静かな闇の中に、ただ、白い顔と白い手が、朧に浮かび上がる。
果たして、その姿を見た凡が感じるのは、その白さに対する美しさなのだろうか、或いは、白さの背景にある暗闇に対する恐怖なのだろうか。
とはいうものの、その暗闇に座っている女性が、みゆきさんなら、凡は、そこに必ず美しさをみるだろう。
それが、たとえ、一条の光さえない暗黒の中に凡がいて、その暗闇の目の前に、みゆきさんがいたとしても、凡は、みゆきさんに、美しさを感じるであろう。
目を使って網膜に焼き付けた映像を、脳が解釈して美しいと認識する。
日常の生活では、それが普通の美を感じるプロセスだ。
でも、そのプロセスは、光がある前提で、成立するものだ。
今、凡がいる暗黒の世界では、通用しない。
なのだけれど、もし凡が暗黒にいるとしても、みゆきさんの美しさは、リアルに感じることができそうな、そんな気が今はするのである。
それは、そこに、みゆきさんがいるという認識だけで、その存在しているという認識だけで、美しさを感じるからだ。
物体の認識は、視覚だけに頼っていると、その実体を見失う。
もし、視覚だけに頼っているならば、自分の背後に、物体が存在していても、それは、視覚的には、存在しないことになってしまう。
でも、実際は、確かに存在しているんだ。
暗闇の中の物体は、そこにあるという確信によって、存在している。
なので、暗闇に、みゆきさんが存在していると確信することで、その美しさも認識できてしまう。
何物にも依らない存在。
絶対的な、存在、
そして、そこから発生する、絶対的な、美しさ。
それが、みゆきさんの美しさだ。
凡は、今回、スポットライトの消えかかる一瞬に、みゆきさんの絶対的な美しさをみたような気がした。
というか、美しさを感じた。
というか、こんなことを書いていますが、実際は、明るい光の下で、みゆきさんを、穴が開くほど、見つめたいのでございます。
だって、見た目が可愛いんだもの。
そりゃ、ずっと明るいところで見ていたいよね。
うん。
それから、それから、第2幕になると、みゆきさんの衣装は、赤い服に変わる。
あれがまた、いい。
アラビアンナイト風というのかな。
赤い服で、腕の部分と、脚の部分が、シースルーになっている。
ありがとう!みゆきさーん。
凡は、女性の服装で何か好きかって、シースルーほど好きなものはない。
それを、知っているのか、知らないのか、というか、それは絶対に知らないだろうけれどさ、シースルーにしてくれた、みゆきさんに感謝。
それで見ていると、中ちゃんが、すあまの部分が現れて、みゆきさんの足に絡みつくシーンでも、みゆきさんの脚がシースルーで見えるんだけれど、脚の角度などが、決まっているんだ。
或いは、そんな脚の角度なんかも、考えて演出をしているのかもしれないね。
兎に角、美しいし。
兎に角、シースルーがいい。
そんでもって、後半は、India Gooseとかを歌うんだけれど、ステージの中央あたりで、歌う。
その時に、真正面を向いて、やや上の方を見上げる形の姿勢をとるのだけれど、その時の、目がまた美しい。
上を見ているので、目の黒目は、真ん中の上の方にある。
そして、目の下と、左右は、白目だ。
やっぱり、みゆきさんの白目は、絶品だと思う。
もし、お時間がありましたら、凡の昔のみゆきさんに関するブログを読んでくださいましね。
みゆきさんの、白目が、どれだけ美しいかを書いておりますゆえ。
(みゆきさんの白目についての、あれこれは、ここからスタートしました。もし、お時間が、有り余ってましたら、どうぞ、覗いてくださいまし。⇒)
そんなこんなで、約2時間の、夜会vol.19「橋の下のアルカディア」も終わった。
ただ、みゆきさんの美しさは、ここで終わらない。
ステージが終わって、最後の舞台挨拶だ。
メンバーが順番にステージに出て来るのだけれど、みゆきさんが出てきた瞬間、場内が急に華やかな空気に包まれる。
そして、みゆきさんが、挨拶をした。
今回は、結構、長目に喋ったかな。
お礼の言葉と、来ている人を気遣う言葉。
それよりなにより、絶品の笑顔。
あの笑顔は、尋常じゃない。
兎に角、もう、凡も、あの最後の挨拶の笑顔だけで、骨抜きになってしまいました。
あの笑顔を、永遠に見ていたいんだ。
というか、もう、ステージも何も無くてもいい。
ずっと、2時間、ステージの中央で、あのまま、立っていてくれさえしてくれれば、他に何もいらない。
、、、、とはいうものの、2時間も笑顔でいたら、みゆきさんも、顔の筋肉がひきつっちゃうね。
でも、素敵だった。
ということで、ステージも、そして挨拶も、終わって、名残惜しいけれど、会場を出る。
そして、勿論、出待ちの場所に向かったのであります。
(1度見た記憶だけで書いておりますので、曲名や、詳細については、間違っている点があるかもしれませんが、その点は、お許しくださいませ。)

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