平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(653)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(241)

好きで好きで堪らない人に、会うことが出来ない。
こんな残酷なことがあるだろうか。
会うことも出来なければ、凡の存在すら認知されていない。
ましてや、その人に愛してもらえるなんて、想像すら、いや妄想すらできないのである。
苦しいじゃない。
寂しいじゃない。
でも、それが現実だ。
そして、その相手は、勿論、みゆきさんである。
みゆきさんは、可愛いね。
そして、美しい。
でも、ただ遠いところから、見ているだけだ。
とはいうものの、現実に今、この世界にみゆきさんも生きているのである。
そして、凡も生きている。
その生きている場所が、離れているだけのことなんだ。
東京と大阪。
たかが400キロだ。
会いに行こうと思えば、いつだって行ける。
でも、それが出来ないんだ。
だって、みゆきさんは凡を認知していない。
たとえ、飛行機で東京に駆けつけて、みゆきさんの目の前に立ったとしても、みゆきさんの視線は凡を捉えないだろう。
だって、知らないんだもん。
巻き尺の距離がいくら近くても、存在の距離は遠く果てしない。
悲しいね。
何が悲しいって、自分のことを認めてくれていないことほど、悲しいことはない。
それにさ、さっき、いつだって行けると書いたけれども、実際は行けないのである。
会えないのである。
じゃ、凡なんて、存在しないのと同じだ。
そんな時に思う。
あの台北の金山のテレサ・テンさんのお墓を守っているオッチャンのことを。
そのオッチャンは、凡が先日に台北のテレサ・テンさんのお墓に行った時に、お墓の前で、さも親戚のように、そこにたたずんで、来訪者のお世話をしていた。
凡も、お墓の前で、線香を渡された。
話をお聞きすると、そのオッチャンは、テレサ・テンさんが好きだったという。
あのオッチャンもまた、凡と同じ思いでいたんだと思う。
会いたくても、会えない。
でも、テレサ・テンさんが死んで、その場所に埋葬されたときに、オッチャンは初めて、テレサ・テンさんの傍に行くことができたのである。
好きで好きで堪らない人には、生きて幸せになってほしいと思うのは、これは当然の感情だ。でも、その好きな人が死んで初めて、オッチャンの願いは叶えられた。
哀れ以外の何物でもない。
思い半ばに死んだテレサ・テンさんが哀れだ。
そして、死んで願いが叶ったオッチャンが哀れだ。
でも、オッチャンは、死んでから年月も経っているのも手伝ってはいるだろうけれど、そのお墓の前で、淡々と立っていた。
或いは、凡はオッチャンのこころは、今は穏やかで幸せに満ちているのかもしれないと思った。
生きている間は、近くに行くことも出来なかったテレサ・テンさんが、今は、すぐ傍にいる。
こんな幸せがあるだろうか。
だから、オッチャンは、雨の日も、風の日も、毎日毎日、テレサ・テンさんのお墓に来るんだ。
でも、凡はその気持ちが痛いように解ったのである。
凡も、みゆきさんに会えない。
でも、もし、仮にだけれど、みゆきさんが死んだら、凡も毎日毎日、お墓に行くだろう。
そして、みゆきさんが傍にいることを幸せに思うのかもしれない。
とはいうものの、ここに問題がある。
実際の話で考えるなら、凡はみゆきさんのお墓に1度や2度は行くだろうけれど、毎日は行かないだろうと思うのである。
何故なら、凡は不思議な説明のつかないことも好きなんだけれど、現実的な理屈も好きなんです。
みゆきさんのお墓に行っても、そこにあるのは、墓石とその下に埋められた骨壺だ。
そして、その骨壺の中には、みゆきさんの火葬をされた骨が入っている。
それは、かつてみゆきさんの身体の1分であったものだから、凡にとっては愛おしくて愛おしくて堪らないものだ。
でも、よくよく考えると、火葬という高温で焼かれたときに、みゆきさんの肉体は、無くなってしまっている。
残った骨にしても、高温で処理されているので、ある意味、単なるカルシウムにすぎないのである。
カルシウムの傍にいたって、そんなの仕方がない。
凡がテレサ・テンさんのお墓に行ったときに、オッチャンの気持ちに、凡もそうだなあと感じたのは、それはきっと、テレサ・テンさんが土葬されていたからだと思う。
しかも、テレサ・テンさんは、死んだあと、エンバーミングという、死んだ時そのままの姿が何年も続く様に処理されて、土葬されているという。
なので、その墓石の下には、生前と同じ肉体のテレサ・テンさんが眠っているのだ。
これは、テレサ・テンさんが好きな人にとっては、まさしく、生きているのと同じだと思う。
だから、オッチャンは、毎日毎日、お墓に行くんだと、納得をした。
そう思うと、肉体の持つエネルギーって、すごいものがある。
凡も親が亡くなったときに、まだ死んだということを実感できずに、顔を見ては泣いてばかりいた。
でも、焼いて骨になったときに、ああ、死んだんだと。
その事実を受け入れることができた。
人は、見た目の肉体だけでなく、魂でも繋がっているという話も聞くのではあるが、今思うと、肉体もない、姿かたちもないものを、愛することができるのだろうかと疑問だ。
形もなく、ただのバイブレーションの存在を、どう愛したら良いか解らない。
そう考えると、みゆきさんだって、凡は見た目が好きなのである。
果たして、形もなくバイブレーションだけになったみゆきさんが好きなのか、判然とした結論がでない。
ただ、そのバイブレーションに、考え方や性格があるのなら、たぶん好きになるだろう。
でも、形がないから、仕草もないんだよね。
形がないから、表情もないんだよね。
凡は、みゆきさんの仕草や表情が、堪らなく好きなんだけれどね。
でも、これはみゆきさんを好きな凡にとっては、大問題なのではある。
例えば、まったく別の人に、みゆきさんのバイブレーションが乗り移ったら、どうだろうかと考える。
見た目は違うけれど、考え方や、仕草、表情はみゆきさんなんだ。
ということは、あの白目の見せ方も心得ている。
ただ、これは見た目にもよるだろう。
梨花ちゃんや、黒木メイサちゃんの肉体だったら、どうだ。
これは、好きになってしまうかもしれない。
だって、可愛いものね。
でも、いくら白目の見せ方を心得ていても、あのみゆきさんの白目でなくちゃダメなんだ。
あの、顔の輪郭があって、あの眉毛があって、あの鼻があって、あの口があって、あの顎がある。
そのみゆきさんじゃダメなんだ。
そして、泉沢記子さんのメイクによって、色んな顔に変化できる、あのみゆきさんじゃなきゃイヤなんだ。
なので、たぶん始めは好きになっても、その内に、何か違うと思い出すだろう。
でも、中身はみゆきさんだから、好きなのは間違いがないんだ。
そんな少しややこしいことになってしまうだろう。
そしたら、例えば、見た目がみゆきさんで、中身はまったく違う人だったらどうだ。
それは、間違いなく好きになるだろう。
だって、凡は、みゆきさんの見た目が大好きだからである。
とはいうものの、中身はまったく違うので、考え方も違うし、表情だって違う。
たとえ白目を見せたところで、その見せ方を知らないので、あんなに魅力的には見せることが出来ないだろう。
みゆきさんの1番の魅力を発揮できないみゆきさんは、それはみゆきさんじゃない。
なので、始めは好きになっても、やがて違うなと感じ始めるに違いない。
でも、見た目はみゆきさんだから、離れたくないと思うのではないだろうか。
これまた、ややこしい話になってしまう。
一体において、肉体も中身の魂も、これは表裏一体というか、どちらも表であり、その人を形成しているのではないだろうか。
やっぱり凡は、今のみゆきさん、そのものでなきゃ、ダメなんだろうなと思う。
だから、カルシウムになった、みゆきさんには、執着しないのではないだろうかと、今は想像するのだけれど、それでも、やっぱり、みゆきさんの影を求めてお墓に行ってしまうのが、優柔不断の極みの凡なのであろう。
さて、そんなみゆきさんに、現実的に会うことが出来るようである。
正確に言うなら、みゆきさんを見ると表現すべきだけれど。
今年もまた、秋なのか冬なのかに、みゆきさんが夜会をやるようです。
橋の下のアルカディア。
これは、どうしても都合をつけて行かなければいけない。
凡は、だいぶん前に、夜会の方が好きだとブログで書いたかもしれない。
いつか書いたか忘れたので、たぶんの記憶だけれども。
その理由は、夜会の方が、みゆきさんの色んな表情が見れるからだと書いたかもしれない。
夜会はストーリー仕立てだから、みゆきさんもストーリーに合わせて色んな表情をする。
凡は、普段のみゆきさんを知らないから、そんなお芝居の表情を見ては、普段はこんな感じなのかなと想像していた。
だから、夜会が好きだと感じていた。
それで、今回も、夜会「橋の下のアルカディア」だ。
でも、その発表を聞いたときに、なんだ夜会かと、そんな思いを、ほんの、ほんの、ほんの少しだけ持ったのであります。
今回に限っては、コンサートの方がいいなと。
何故かというと、昨年の冬から、今年にかけてやった、コンサート「一会」が、とてつもなく、みゆきさんの魅力を発揮していたからである。
あの、一会の、「ライカM4」の可愛さを見たら、もうメロメロで、あれは何百回、何万回と、永遠にリフレインさせて見ていたい振り付けだ。
そして、あの「六花」の可憐さときたら、胸が締め付けられるほど、美しい。
あんなコンサートを見たら、もう、あれ以上のものがあるだろうかと思ってしまう。
だから、今回は一会をもう一度見たいのである。
それに、コンサートだったら、ずっとみゆきさんを見ていられる。
夜会だと、共演者がいるので、そっちも見なきゃいけない。
昔の夜会だと、そこまでストーリーは設定されていないので、みゆきさんだけを見ることが出来たようですが。
とはいうものの、今度やる夜会「橋の下のアルカディア」も、みゆきさんのことだから、また内容を高めて、公演に臨むのじゃないかなと思うので、折角みゆきさんがやろうとしていることは、これは凡も必死で見なきゃいけないのではあります。
ただ、今は、あまり、身体も気持ちも、無理しないでと、声が届くなら、叫びたい。
そういえば、今日、凡は昔の夜会のDVD「邯鄲」を見た。
腰を抜かしそうになった。
あれは、たぶん20年以上前の夜会の映像だと思う。
開いた口がふさがらないぐらい可愛い。
どのシーンも、凡の大好きなみゆきさんが、そこにいるんだ。
凡は、みゆきさんを好きになったのは、4年ぐらい前だから、どちらかというと、今のみゆきさんの映像を見るのが好きだ。
コンサートのDVDも、縁会とかの映像を、よく見たりする。
笑い声も、オールナイトニッポン月イチのラジオから流れる声に、ウットリとしてしまう。
でも、たまに昔のDVDを見ると、今のみゆきさんも可愛いけれど、昔もまた、飛びっきりに可愛かったんだなあと感心してしまう。
今日見た、邯鄲も、タクシードライバーでは、大好きな白目を存分に見せてくれるし、途中に大島弓子さんの綿の国星のような猫の女の子のような衣装でキュンとさせてくれたり、パジャマで歌うシーンは、もうドキドキしちゃうぐらいキュートである。
そして特筆すべきは、スポットライトがあたる中、寝っ転がるシーンだ。
そして、そこから「わかれうた」「ひとり上手」と続くシーンは、初めて見た時は、笑い転げてしまった。
でも、このシーンが、凡がみゆきさんを好きになるキッカケだったのです。
NHKか何かの特集で、このシーンを見て、やられてしまったのである。
そこで、思ったのは、みゆきさんは、若い時も今も、どっちも可愛くて、美しいということだ。
これは解っていたことの再確認だけれど。
そんなみゆきさんに会える今年の夜会に向けて、凡は今年になって、弟にみゆきさんのファンクラブに入ってもらった。
勿論、チケット確保のためである。
今年の冬に向けて、気合は十分。
あとは、凡がその時までに、死んでカルシウムにならないようにしなければいけないということだけである
凡が、カルシウムになったところで、誰もどうとも思わないだろうけれど。
そういえば、だいぶん前に、凡がもし死んだら、その骨の1本を、みゆきさんの家の塀の中に、ポンと放り込んでくれとミニボンに頼んだことがる。
その時、ミニボンは「嫌だ。」と言った。
でも、今は、凡も、そんなことはどうだっていい。
だって、単なるカルシウムを放り込んでも、何の意味もないものね。
まあ、生ごみの日にでも、ビニール袋に入れて、捨ててくれればいいのである。

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(タクシードライバーのシーン)

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(パジャマのシーン)

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(わかれうたのシーン)

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(綿の国星のような衣装のシーン)
どれも、DVDをキャプチャーしたのですが、綺麗にキャプチャー出来なくて、残念。本当はもっと、良いしーんがあったのですが。)

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