散散歩歩。(578)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(220)

葛飾柴又から帰ってきたら、これまたどこへ行こうということもなく、上野駅の13番ホームを歩いてみたり、駅弁の売り場を覗いたり、そんなことをしていた。
そして、美術館でも行ってみようかと思った。
新宿にある東郷青児記念と銘打った損保ジャパン日本興亜美術館だ。
凡は、名前に東郷青児とあるので、てっきり東郷青児の作品が展示されているものとばかり思っていたのだけれど、見終わってから係りの人に聞いて確認したら、今は企画展をやっていてお目当ての作品は1点しか展示されていなかった。

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美術館はビルの42階にある。
エレベータで上がって荷物を預けるとガラス窓に気が付いた。
これはアキマヘン。
もう、ここが42階だと思うと、それが気になって気になって、足がスカスカになってしまった。
でも、展示フロアに入って、2つ目のコーナーに入ったときに、凡の感覚はその壁に掛けられた絵に引き込まれていった。
そこには、昔懐かしいと感じる風景が書かれた絵があるのだけれど、普通の感覚でみた風景ではなくて、作者のこころの目というか、その風景のあった時間の少し暗い部分の波動に同調した見た目で描かれているのです。
というか、そんな風に描かれていると凡は感じた。
いつも見ている風景なんだけれど、ふと異次元に迷いこんだような錯覚に陥るような作品だ。
その色遣いも独特で、東郷青児さんの独特の色合いを彷彿とさせるものがあるのですが、はっきりとオリジナルとして表現されている。
凡ははなはだ気に入ったのですが、その時にはもう42階の高さを忘れていた。
帰るときにその作家の作品が販売されていたのですが、どうにも欲しいなと思ったのですが、小さなサイズで5万円だったので、躊躇してやめた。
本物とはいえ、やっぱり5万円だものね。
まだまだ我儘になりきることができない凡なのであります。
というか、その資金が凡には足りないというか、ないのが問題なのであります。
永原トミヒロさんという大阪の作家だ。
もし大阪でも個展があったなら、ぜひとも見に行きたいと思う。

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(写真でどこまでその良さが伝わるかと思う。そして、写真を無断で載せてゴメンナサイ。でも、この良さを伝えたかったので敢えて1枚アップしました。会場でアイフォンで撮影したものです。)
その他の作家も、どれも面白い企画をされていて、なかなか面白かったです。
中にヌードを素材にされて書かれている絵もあって、この企画展は写真を撮ってもいいということで、パチパチと撮ってはいたのですが、やっぱりヌードを撮るときは、周りの人に言い訳したくなった。
いや、そんなつもりではないのでありますと。
それは二川和之さんという作家の作品で、「秒差二態」という、ほんの少しの秒差の前と後を1枚に表現したもので、これもまた面白いなと思う。
もちろん、もちろんヌードだから面白いんじゃないですよ。
意図が面白いんです。
とはいうものの、この絵はヌードだからこそ、その2態をストレートに表現できたのではないだろうかと思う。

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(これもまた無断でゴメンナサイ。すごく発想が面白いと思うんです。これも、また上の写真も会場では撮影しても良いということになっているものです。)
そんな、意欲的な作品を見ながら最後まで来たら、分厚いガラスが見えた。
そしてその奥に、1メーター以上奥に、ゴッホのひまわりがあった。
そしてその横に、ゴーギャンとセザンヌ。
高額なのは解るけれども、興醒めである。
素性の分からない人、つまりはあんた!そして、あんたも、あんたも、きっと悪いことするから、誰にも触られないように分厚いガラスで仕切って、絶対に作品には近づけさせないわよという無言の指示をされているのである。
解るけれどさ。
これじゃ、本当の美術を鑑賞するという目的から大きくズレちゃってるよ。
絵の価値を決めるのは、その絵自体であるはずだ。
それは見るものが、それぞれの感性でもって、各々が決めればいい。
ある人はその絵を絶賛し、そしてある人はその絵を酷評する。
それでこそ絵がパブリックの場に置かれることの意味なんだ。
なのであるのに、この展示方法はどうだ。
このゴッホのひまわりは確かに素晴らしい絵だろう。
でも、この絵をこんなふうに人から遮断するというのは、この絵の持つ価値をあらかじめ世間一般の評判だけで決めてしまっているということだ。
更に言うなら、その評判のもととなっているのは、この絵の流通している場での価値というよりも、商品としての金額である。
美術館が、百貨店と化してしまっている。
勿体ないね。
この美術館で絵を見て来て、最後の最後のコーナーにこんな仕掛けがあるなんて、どうも少し悲しかった。
そんなことを考えていたら、あることを思い出した。
このゴッホの場合は、壁があって、そこにガラスがはめ込まれている。
なので、分厚いガラスがあることが見ている人にすぐに分かる。
でも、凡は分厚いガラスがあることを、今まで忘れて、その対象物を必死で観賞しようとしていたことに気が付いたのである。
みゆきさんだ。
凡はみゆきさんのコンサートに行って、そのみゆきさんの美しさを必死で感じようとしているのです。
言い方が間違っているか。
みゆきさんは、存在しているそのままで美しいので、その美しさを感じようとしなくても良い。
感じようと努力しなくても美しさは凡の脳にストレートに伝わっている。
じゃ何かというと、美しさは凡に伝わってはいるのだけれど、何故か生身のみゆきさんじゃないような気がしていたんだ。
コンサートのステージに立つみゆきさんは、凡なんかと縁が繋がることが不可能な存在に感じるのである。
ハッキリとした隔たり。
つまりは、分厚いガラスなんだ。
このガラスは、美術館のようにそのガラスを通して見ているという意識を見るものが認識して、その向こうの作品を見るのではなくて、みゆきさんのコンサートの場合、その分厚いガラスがあることを、見ている人が気が付かないで、みゆきさんと一緒にいると錯覚してしまうところが残酷だ。
みゆきさんがそこにいると思っても、実はその間には分厚いガラスがあるんだ。
そして、そのガラスの向こうに、商品として立っているみゆきさん。
悲しい。
いつも感じていた、目に見えない隔たり。
コンサートを見終わって感じる寂しさ。
或いは、凡以外の人もそんな風に感じているのかもしれないね。
さて、気がつかなくても良かったみゆきさんと凡の間にあるガラス。
とはいうものの、とにかくはみゆきさんを見ることができるんだからさ。
気を取り直して、コンサートに生きましょう。
一旦、コンサートに行く用意をしにホテルに戻る。
少しばかり何か食べたいのでホテルの下で崎陽軒の横浜チャーハンを買って、大急ぎでホテルで食べた。

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さて、今日もまた、ガラスが目の前に存在しているのではありますが、みゆきさんに「会いに」行くことにしよう。

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