平 凡蔵。の 創作劇場

恋愛ストーリーや、コメディタッチのストーリー、色んなストーリーがあります。
どれも、すぐに読めちゃう短編なので、読んで頂けたら、うれしいです。

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散散歩歩。(558)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(208)

1部の幕が下りると、凡はロビーの方に出た。
何しろ席が狭いのと、座面の高さがあっていないので、腰を伸ばしたかったのです。
そんでもって、ついでにトイレへも。
2部の開演間近になって席に戻ると、隣の中年の男性とそのお連れの女性が話している。
「死んだら終わりやで。」
何の事だろうと話に意識を向けると、声がそれほど大きくないので細かいところまでは分らないのだけれど、どうも女性がCDなのかみゆきさんのグッズを買いたいようなのだ。
それを男性がいさめている。
その理屈が、死んだら終わりだということであるらしい。
この死んだら終わりという言葉には、2つの意味がある。
1つは人間死んでしまったら、ハイもうお終いという意味。
魂や生まれ変わりを否定したなら、そういう結論に誰でも達するだろう。
これについては、凡自身の最大の関心事なのでありますが、今書くことは困難だし、この男性の言っている意味じゃない。
この男性の言っているもう1つの意味は、人間は死んだら物を持つことができないんだから、そんなグッズを買っても死んだらゴミになってしまうんだから意味がないよということだろう。
これはまったくもって正論だ。
凡も一時同じような考えになったことがある。
それは両親が死んだ時だ。
親が死んで残された部屋には、いろんが物があった。
普段使っていた食器や服、テーブルやテレビ、そしてちょっとしたメモ書きや家計簿などなど物に溢れていた。
どれも親が使っていたものだ。
凡はそんな物に親の面影を見つけては、懐かしく思ったり寂しく思ったりしていた。
メモ書き1枚でも、それは愛おしかった。
でも、死んだ親にとってみれば、死んでしまったその後は、物には意味がない。
使うことができないものね。
あの世から見ているだけしか出来ないのである。
あの世があるとしての話だけどね。
そう思った瞬間、凡は半分やけっぱちになって、親の部屋の物を捨てた。
全部のゴミという物を捨てた時に、凡は1人になってしまったことを感じた。
そして凡自身の気持ちの整理が完了したと同時に、凡の今の生活の身の回りにある物は本当に必要なのかという考えが出てきたのであります。
とはいうものの、年月が経つとそんな考えも薄れてきて、今の凡の周りにはやっぱり物があふれている。
そしてあの時に捨てた物も、置いときゃ良かったなと思うのであります。
そんな隣に座った中年男性の「死んだら終わりやで。」である。
これは確かに正論だろう。
でも、そんなことを言いだしたら、身の回りの物がすべて無くなっちゃう。
人間は、この人間界というところに住んでいる。
ならば、せっかくこの人間界に生まれてきたのだから、人間らしく生きることが本筋だ。
それは、別に倫理的に正しいと思われているように生きるということではない。
人間とは欲によって動いている生き物だ。
そしてその欲によって泣き、笑い、苦しむのである。
ならば、人間らしく生きるということは、欲むき出しに生きるのが正解だ。
ということはである。
みゆきさんが好きで、みゆきさんのグッズが欲しいと思ったなら、大いに喜んで買うべきなんだ。
そしてみゆきさんのグッズを手に入れたことを、こころから楽しいって思うべきなんだ。
それは1瞬だっていい。
1瞬、嬉しいな楽しいなと思って、それで押入れの中に置き忘れたって良いのである。
死んだら終わりやなんて、正論ぶってこころの動きに従わないよりよっぽど正論なのであります。
そんなことを思ったのでありますが、そんなことよりも2幕が始まるのです。
凡はステージに意識を向け直した。
オールナイトニッポン月イチの演出で始まるのだけれど、今回もメッセージは読まれなかった。
これは仕方がないか。
それよりも、凡が気になったのは、みゆきさんへのメッセージで、みゆきさんが大阪でポイントカードを出したら有効期限が切れていたという話をしたことだ。
そして、大阪にも年に何回か来ているという話をしていた。
知人がいるからだと。
凡はみゆきさんが出不精なイメージを持っていた。
なのでずっと東京から離れないと思ってたんだ。
でも、大阪にも来ているとは、これは重大な情報である。
何処?
何処なの?
ということはさ、凡も大阪をウロウロしてたら、いつかはみゆきさんに出会える可能性もゼロじゃなということだよね。
とはいうものの大阪の何処をウロウロするのか、これは見当がつかないのではある。
見当がつかないところをウロウロするのも、これは悲しいウロウロになるだろう。
いつだって凡は悲しい。
仕方がないか。
さて、2部もまた、みゆきさんは絶品に可愛い。
黒いコートだって、ゴールドのワンピースだって、白い半そでの上着だって、どれも似合ってるんだね。
もうただただウットリとして見るほかはない。
そんでもって、気が付いたことは、みゆきさんのオデコである。
みゆきさんは髪の両サイドはクルクルとカールさせていたりするけれども、オデコは出している。
これが可愛いのである。
ただ可愛いだけじゃない、そこに知性的な優しさがある。
もしも凡が風邪をひいて熱を出しても、みゆきさんが「凡ちゃん、熱どう?」なんてオデコとオデコをごっつんこしてくれたらな、それだけで風邪が治っちゃいそうだね。
よく女性でオデコを隠している人がいる。
若い女性に多いような気がするのであるけれども、あれはオデコを出すのが恥ずかしいのだろうか。
電車の中とかで前髪を撫でおろしては綺麗に揃えたりしている女性を見る。
確かに前髪を下すと若く見える。
だから若く見せたいという女性の心理なのだろうか。
でも、何か隠しているというイメージを凡は持ってしまう。
自分の気持ちを人に知られたくないというような感じ。
でも、みゆきさんはオデコを出しているんだね。
だからオープンな感じなんだ。
そこから受ける印象は、誰でもを受け入れてくれるというイメージなんだ。
そこがみゆきさんが皆に愛されるところなのかもしれない。
凡だって、みゆきさんに受け入れてもらえるんじゃないかという思い。
まるで聖母マリア様じゃないか。
苦しんでいる人を差別することなく受け入れてくれる。
そして優しく癒してくれる。
そんなオデコなんだ。
それがまた可愛いというんだから、もうまいってしまうのである。
そんなオデコに双眼鏡で見とれていたのである。
しかし、時間と言うものは無常だ。
アンコールも予定どうり終わって、14日の一会は終了した。
コンサートが終わると、同級生の女の子と再会。
ビールに誘うも撃沈。
仕方なく、途中まで歩きながら話をした。
まだまだ話足りなかったのではありますが、凡は別れてから出待ち場所に引き返した。
折角だからね。
そこには30名ぐらいだろうか、人が集まっていて凡もその最後に並ぶ。
コンサートの興奮覚めやらぬ状態でみんな静かに待っていた。
すると係りの人がもうすぐ出てくるけれども、カメラ禁止だとか、静かに見送ってなど注意をしにきた。
いよいよだなと思っていると、1台のミラーの貼ったバンが出てきた。
その窓は半分開けられていて、そこからみゆきさんの白い手のひらだけが1瞬見えたのである。
みんなは出口の左側に並んでいたのですが、バンは出口を出て反対方向に進んで行った。
だから、凡の後ろの人なんてみゆきさんが出て行ってから、「あれ、もう終わったの。」なんてみゆきさんが出て行ったことも解らなかったようである。
少しばかり寂しいが、これもまた仕方がない。
さて、どこかの店でビールでも飲んで帰りましょうか。
コンサートの夜は、真っ直ぐには帰りたくないのである。
そういえば、凡の勝負パンツは今日もまた無駄であったようでございます。
否、別に何かを期待していたわけでは決してありませんことをここに断言しておきたいのでございます。

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(ギターが可愛いですよね。)

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