平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(492)人間本来無一物は残酷な言葉だ。

「人間本来無一物」という言葉がある。
これは禅の言葉で、元々は弘忍禅師と言う人が、自分の後を継がせる人を選ぶために禅の門下生に問題を出したのですが、弟子の頭の良い神秀さんと言う人が1番良い答えを出して、700人いる門下生から成程なと感心されたということがあり、その答えを見たお寺の米搗き男の慧能さん(えのう)という人が、その答えに付け足した答えが、更に素晴らしい答えで、結局はその慧能さんが後を継ぐことになったという話があって、その時の答えの中に、「本来無一物」という言葉が出てくるのです。
その答えについては、有名な話なので色んな本などでも解説されているので、詳しくはそちらにお任せして、ここには書かない。
というよりも、書くほどの知識が無いから書けないのであります。
そして、その答えにでてくる本来無一物という言葉の意味することは、凡の解釈では、こんな感じだろうか。
現実の世界の今見ているモノは、そして現実のココロの世界も、何かの縁を得て、そこにモノ或いはココロのモノとして存在しているのであって、縁が変われば、そこに存在することのないものであるということを表しているのではないかと思う。
つまりは、常に決まっている実体というものはないという空の世界を説いているのじゃないだろうか。
或いは、もっと究極に絶対的な無の世界を説いているのだろうか。
ただ、本当の意味は、偉い人に聞いて欲しい。
凡は仏教学者でもないし、それを考察する知識も頭もない。
そんな難しいことを考えると、頭がこんがらがる。
頭がこんがらがると、頭が真っ白になる。
頭が真っ白になると、知らない間に時間が経ってしまう。
知らない間に時間が経ってしまうと、みゆきさんのDVDを見る時間がなくなってしまう。
みゆきさんのDVDを見る時間がなくなってしまうと、凡はションボリとなる。
凡がションボリとなったところで、誰も心配はしてくれはしない。
誰も心配をしてはくれないのなら、ションボリし損な訳だから、もうションボリするのはやめよう。
つまりは、そんな難しいことを考えるのは、止めた方がいい。
なので、始めの無一物に戻る訳なんだけれども、無一物という言葉自体には、何か上手くは説明できないが深い趣がある。
その言葉の響きには、どこかキッパリとしたところがあって、凡は好きな言葉だ。
非常にスッキリとしている。
気持ちがいい。
でも、これに「人間」という言葉がついて、「人間本来無一物」となったときに、またもや凡のへそ曲がりが出てくるのであります。
この言葉は、お寺で聞く説教や、こころのカウンセリングの本や、どこぞの偉い先生の公演などで、話に出てくることも多い。
それを説明するのに、人間はもともと裸で何も持たずに生まれてきて、裸で何も持たずに死んでいく。
だから、執着というものを捨てることが大切だということを言いたい訳である。
もしくは、どんな失敗をしても生まれたときの元にもどるだけだから、大丈夫なんて人を元気づけるときに使ったりする。
お寺で仏教を生業にしている人も、そんな風にみんなに話聞かせていたりする。
おおもとでは、さっきの無一物と同じところを説いているのかもしれないけれど、「人間本来無一物」となったときに、凡はどうもこの言葉の深い真意ではなく、この言葉の単純な意味と、みんながしている説明に、大いに違和感を感じる。
聞いて気持ち悪いのである。
そして、不愉快なのである。
何故かというと、人間は本来、生まれて来たときは無一物ではないからだ。
無一物じゃないから、聞いていてしっくりとこない。
死ぬ時は裸で何も持っては死ねないということは、それに関しては一応頷ける。
でも、生まれてくるときは、決して無一物じゃない。
生まれて来たときの赤ちゃんを見ると、確かに裸だ。
でも、そこには親がいて、住む家もあって、身体を包む布もあって、温かい乳も用意されている。
見えないけれども、色んなものを既に持って生まれているんだ。
それに、見えないものと言う部分では、大いなる欲も持って生まれてくる。
赤ちゃんだから欲はないなんてことはないだろう。
凡は赤ちゃんの時のことは覚えていないけれど、これは想像だけれど、赤ちゃんの欲も、大人と同じぐらいの大きさの欲を持っている筈だ。
欲のあるところには、執着もある。
赤ちゃんにも執着はある筈だ。
そして、さっきの話に戻るけれど、生まれた時点で既に持っている親や家や布や乳は、生まれた時にその質や量が決まっている。
日本の裕福な家庭に生まれるのと、どこかの毎日餓死で何人も亡くなっている地域で生まれるのでは、天と地の差があるのだ。
残酷だと思わないかい。
凡は、本当に生まれてきた子供が、平等に無一物であったなら、どんなにか気が楽だろうと思う。
その人の人生は、その人次第。
ただ、健康で生まれてくるなら、その人次第なんて突き放せるのだけれど、生まれて来たときに、無一物どころか、マイナスってこともあるんだ。
マイナスの負を背負って生まれてくる赤ちゃんもいる。
無一物は、何も持っていないという意味だけれど、マイナスから見ると、ものすごい大きなものを持っていることになる。
マイナスじゃない。
負じゃない。
世の中には、病気やしょうがいを持って生まれてくる子もいるんだ。
そんな人にとっては、人間本来無一物なんて言葉は、残酷な言葉以外のなにものでもない。
何が無一物だって、見えないなにかを蹴飛ばして、泣きそうになってしまう。
そんな説教なんて、聞いてられなくて逃げ出してしまうだろう。
失敗しても、元に戻るだけなんていっても、元のマイナスに戻ってどうするの。
折角、頑張って、よりよくなろうと、もがき苦しんでやっとある程度まで来たのにさ。
凡のお姉さん、と言っても会ったこともないのでお姉さんとしての実感はないのですが、凡にはお姉さんという人がいて、生まれて4日目に肺炎で死んだ。
生まれた瞬間に病気だったのかは知らないのだけれど、とにかく生まれてすぐに病気で死んだ。
これは、マイナスを背負って生まれてきたと言えないだろうか。
凡には、無一物とは言い難い。
生まれて4日で死ぬために生まれてきたなんて、なんて残酷なんだ。
偉い坊さんがいたなら、聞いてみたい。
凡のお姉さんは無一物で生まれてきたのですかと。
だからね、偉い人の説教や本で、この人間本来無一物という言葉を説明するのに、生まれて来たときは何も持っていないなんてことを言う人の感性を凡は疑わずにはいられないのであります。
でも、今はこんな風にも思う。
凡は母親じゃないから、そして子供もいないので親でもないから、解らないけれども、ひょっとしたら凡の母親は、たった4日間だったけれども、みゆきさんの「誕生」の歌詞のように、「生まれてくれて、ウエルカム」と言ったのかもしれないと。
たとえ病気であっても、たとえ一瞬であっても、娘に出会えたことを、よろこんだのかもしれないと。
きっと母親にとっては、凡のお姉さんはマイナスを背負って生まれて来たのではないと。
しかし、どうにも凡は、話をみゆきさんに繋げようとしてしまうのね。
だって、好きなんだものね、みゆきさんが。
だからね、凡は言いたいのよね。
みゆきさんに。
「生まれてくれて、ウエルカム。」ってね。
そんなことを考えていると、またもや凡に新しい発見が舞い降りてくる。
これは、人間本来無一物に対する新しい解釈だ。
素晴らしい!
最近は、男性の女性化が進んでるよね。
ニューハーフも立派に市民権を得て、むしろテレビなんかでは引っ張りだこだ。
でも、それは人間の本来の姿なんだ。
つまりは、このことを指すんじゃないだろうか。
人間本来無一物。
、、、、一物が無い。
、、、、人間本来ニューハーフ。
どうにも、凡はこんなフザケタ話で終わりたいのでございます。

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