平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(682)岡本太郎Tシャツデザインコンペで遊ぶが、落選。

いつだったか、岡本太郎記念館のホームページを見ていて、「TARO T-SHIRTS デザインコンペ」というのをやっていることを知った。
それで、それに応募をするというのは、少し前にブログで宣言したかもしれない。

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(これは、HPより拝借)
これは何かのタイミングだと思い、早速に凡なりのデザインを考えて応募した。
楽しかったね。
何か、やっている時は、若かった自分に返ったようだった。
岡本太郎さんに、少し近づけるんじゃないかって、喜んでデザインしてみた。
そして、8月の1日に、その第1次選考の発表があったのです。
アクセスなどの選考で、3名が選ばれたけれども、凡の名前はなかった。
何か、詰まらない。
凡の作品が、落っこちたことは、これは仕方がない。
そんなもんだろう。
凡に、才能なんてものは、これは、もともとないのだから。
なんだけれども、作っている間は、これは、楽しかったんだね。
それが、TAROということだ。
作りたいと思ったから、作る。
面白いなと思ったから、作る。
それを嬉々としてやればいい。
その点に於いて、凡は満足なんだ。
そして、その点に於いて、TAROさんだったと思う。
でも、ここで、凡は言いたいことがある。
これは落選して悔しいが為の、自分勝手な悪口と捉えられるかもしれない。
うん、実は、正にそうだ。
でも、批判されても、書いてみたい。
これを読んだ方が、どう考えるかを知りたいからだ。
誰も、凡のブログを読んでいなくても、いつか誰かの目に触れて、その時に、教えてくれればいい。
何に対して文句を言いたいのかというと、これを主催しているPLAY TAROという団体になのである。
今回当選した方々のデザインは、これは素晴らしいと思う。
それぞれの人が、それぞれの感性で、デザインされたのだから、その時点で、その人にとって、そのTシャツは、まぎれもなくTAROさんだ。
だから、当選したデザインの作者を否定する気持ちは、これっぽっちもない。
同じTAROさんなんだから。
でも、凡にとっては、面白くない。
凡にとっては、面白いかどうかというのが、重要なんだ。
今回の作品もそうなんだけれど、今、岡本太郎記念館で販売されているTシャツのデザインを見ると、岡本太郎さんの顔や姿を、そのままデザインとして引っ張ってきて張り付けたり、太郎さんの絵や、太陽の塔などの写真を張り付けたりして、そこに少し手を加えただけのものにしか、凡には感じないのです。

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(最近、岡本太郎記念館で発売されたTシャツ)
販売するTシャツとしてなら、そうなるのだろう。
でも、詰まらない。
そこに岡本太郎さんが、いないからだ。
このTAROさんのTシャツの応募ポスターには、「太郎と遊べ!」とあった。
素晴らしい!
太郎と遊ぶということは、岡本太郎さんという人の、考え方や、情熱や、遊び心や、そんなものを、素人でもいいから、やろうと思ったら、躊躇なく、すぐに作り上げる。
喜んで、喜んで、作る。
それが、TAROということだろうと、凡は思うのであります。
「太郎と遊ぶ」というのは、岡本太郎さんの、顔や姿や、そして作品を、切ったり張ったりすることじゃない。
どっちかというと、岡本太郎さんは、そんなことは嫌いじゃなかったかと思う。
切ったり張ったりだったら、それは、「太郎と遊べ!」じゃなくて、「太郎で遊べ!」とすればいい。
或いは、「太郎をイラエ!」とか、「太郎をモジレ!」「太郎をパッチワーク」とかね。
と、こんなことを書いて来て、何と、凡と言うのは、ネチッコイ捻くれ者なのだろうかと、思う。
いや、ひがみ屋なのか、妬み屋なのか、どっちにしたって、サラサラロングヘア―のえくぼの可愛い、白いニットのワンピースの似合う、沖縄育ちの、例えていうなら、若いころの南沙織さんのような女の子に、「サイテー!」なんて言われそうな性格である。
オッチャンには、「サイテー!」って言われてもいいんだけれど、若い女の子だけには、「サイテー!」は言われたくない。
でも、そんな「サイテー!」と言われる危険を冒してまで、こんなことを書いたのかというと、折角だから、凡の作ったデザインを、このブログにアップしようと思ったからだ。
その前振りが、今書いたことなんです。
何故ブログにアップしたかと言うと、今は、岡本太郎記念館からリンクしているPLAY TAROのサイトに、まだ凡を含めた作品がWEB上に存在しているのですが、もう少ししたら、消えてしまうかもしれない。
それはちょっと寂しい。
それに、凡は作品とは言えない詰まらないものかもしれないけれど、誰にでも目の触れるところに置いておきたいのです。
詰まりは「パブリックな場所」
そして、それが凡のようなものでも無料で出来るのは、WEBしかないのであります。
岡本太郎さんも、パブリックな場所に作品を置くということに、こだわっておられた。
誰にでも、目にに触れる場所。
ただ、凡の場合は、自信があって、そうする訳じゃない。
素晴らし作品だと言われたい訳じゃない。
記録として残しておきたいだけだ。
そして、もし見ることのあった人から、「サイテー!」と言われたいためだ。
誰にだっていい。
若い女の子でも、オッサンでも、「へたくそ」とか、大阪だったら、「しょーもなー」とか言われたいのであります。
何故なら、人に見られないことと、無視されることが、1番辛いからであります。
とはいうものの、凡のブログなんて、読んでいただいてる人は、すごく少ないので、取り敢えずは、記録と、作品の置き所として、ブログにアップする次第であります。
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それでは、どうぞ、お笑いくださいませ。
その1『白目があってもいいじゃないか』
目という人体の器官がある。それは、対象物を見るためには、必要不可欠なものである。その主体は黒目だ。しかし、白目という存在は、およそ、物を見るという点においては、まったくもって不必要なものだ。しかし、生物的に進化を経て来た今もなを、目の一部として存在している。理由があるはずだ。その白目の存在の意義を探ることが、或いは、人間の本質を知る手掛かりになるのではないか。その本質とは、美につながるものであろう。このTシャツは、黒目と白目の対決であり、黒と白との対決でもある。最後に勝つのは、どっちだろうか。

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その2『殺されるな』
岡本太郎さんのメッセージに、「殺すな」というのがある。戦争の無意味さを表現した素晴らしいメッセージだと思う。そして、戦後70年、日本人は人を殺すことを否定し続けてきた。それはいい。しかし、今の世界の現状は、いつもどこかで戦争をやっている。ちっとも変っていない。そして、最近では、テロという新たな「殺す」が、世界の人々を恐怖に陥れている。人間は生きていてこそ、生きられる。しかし、テロは防ぎようがない。それなら、僕は、こう叫びたい。「殺されるな!」と。

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その3『ファスナーのあるTシャツ』
Tシャツは、どうやって着るか。まず、下の裾から手を入れる。と、同時に頭を入れて、上の3か所の穴から両手と頭を出す。誰でもが毎日そうやって着ているに違いない。だけれども、毎日毎日、同じ繰り返しじゃ、詰まらない。ファスナーで、ジャンバーのように着てみよう。断然そっちの方が着やすいじゃない。これからは、団塊の世代が介護されるようになる時代が来る。そんな時には、寝たままでも着れるんだ。何枚も買えば組み合わせも自由。全体が1つだけと信じている物を、個々のパーツに分解することで、楽しみを発見できるのである。

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その4『電光掲示板付きTシャツ』
一昨年、記念館でやっていた「岡本太郎の言葉(壁は自分自身だ)」を見た。
感動した。そして、ふと横を見ると、高校生の女の子が床に座り込んで、岡本太郎さんの言葉のコピー用紙を手に取って見つめていた。ずっと見ていた。その時に思った。岡本太郎さんの言葉は、年齢に関係なく響くんだと。僕は、絵は解らない。或いは、その女の子も解らないかもしれない。でも、言葉は響くんだ。その時に、思ったんです。岡本太郎さんという存在は、絵にしたって、文字にしたって、メッセージなんだと。だから、伝わるんだと。だから、響くんだと。

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その5『メッセージ、メッセージ、メッセージ』
岡本太郎さんという存在は、何かというと、詰まるところ、メッセージである。
大衆に向けて常に発し続けている。大阪の地下鉄に乗ったら、ドアの近くにいた若い男性が、岡本太郎さんの本を読んでいた。それは、何度も何度も読み返されてボロボロだった。どうしようもなくツライ時に、岡本太郎さんの言葉は響く。このTシャツは、ダイレクトに岡本太郎さんの文字を、これでもかとプリントしたものだ。詰まりは、岡本太郎さんのメッセージそのもの。電車の吊り下げ広告のように、そこに居合わせた人は、立ちどまって読んでしまうに違いない。

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その6『ボタンでつながるTシャツ』

ボタンというものは、何かと何かを繋ぐ役割をする。ただ、それは、個の中での繋がりだ。Yシャツの右と左のように。Tシャツにつけられた大小のボタンは、常に外部に向かって、何かに繋がろうとしているようだ。それは、男なのか、女なのか。或いは、仕事の取引先なのか、或いは、友人なのか。人間は1人では生きていけないんだと、追われるように、焦りながら、繋がる相手を探し求める。そして、TAROとの「縁」に繋がっていく。ただ、求めて得られる繋がりは、不純であると、Tシャツには不要なボタンが笑っているようにも見える。

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その7『2枚重ねのTシャツ』
岡本太郎さんは、自分自身を追い詰めることに極端だった。それはエゴに真正面から対峙することだ。そして、そこからエゴを開放することを、芸術を通してやったんだ。ただ、その対峙する対象は、自分自身だけじゃない。周りの人にも向けられる。人を思いやる優しさを持った目で。そんな目で、今の時代を見たら、無駄なものが多すぎる。もし今も生きていたら、環境問題にも一石を投じていただろう。このTシャツは、2枚重ねになっています。2回着てから、洗濯すれば環境保護になります。或いは、カップルで着て、抱き合ってもいい。

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以上、7点なのでありました。
多分に、大阪的ではありますが、笑っていただけましたでしょうか。

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