歌会の映画、3回目であります。
昨日も見に行ったけど、なんせ、昨日、今日と、連休でございまして、そして、ミニボンもパートに行っておりますゆえ、自由の身なのであります。
映画館のある大日駅に行くのに、門真市から、大阪モノレールに乗ろうとしたら、目の前に、3人組の若い女の子が歩いている。
そのうちの一人は、ホットパンツだ。
このホットパンツに変わる今風の言葉が出てこなかったので、一応、ホットパンツのままでいきます。
そのホットパンツの女の子が、前を歩いているんだ。
詰まり、若い女の子の、にゅっと伸びた足があるのである。
「今日は、ラッキーなことが起こるんじゃない?」と嬉しくなった。
凡にとって若い女の子の足は、吉兆である。
そして、モノレールに乗り込んだ時に、「これは、凡としたことが。」と、深く落ち込んだ。
別のもう一人の女の子なのだが、かなりの美人というか、可愛い女の子だったのだ。
こっちを見てれば良かったと。
このことについては、世の男性に確認してみたい、凡の問なのである。
世の男性は、女の子の足を見たいか、或いは、顔を見たいのか。
どっちの割合が多いのだろう。
凡は、顔である。
勿論、足も、実に好きだ。
しかし、足には、幾ばくかの、危険をはらんでいるのである。
10年ほど前だろうか、大阪のなんばを歩いていた。
すると、前を、超ミニスカートの女性が歩いている。
セーラー服のようなアニメのコスプレみたいな服装だ。
その細く長い脚をみて、凡は「やったー。」と、心の中でつぶやいた。
そうなると、どうしても、女の子の顔が見たい。
やや、急ぎ足で、女の子を追い越して、振り返ってみると、、、50歳ぐらいのおっちゃんだった。
何してくれるねん、おっちゃん。
その事件以来、凡は、まずは、顔を確認してからでないと、安心して、脚を見ることができないようになってしまった。
辛く、悲しい過去の事件である。
それに比べて、顔は、もう見ただけで、はっきりと、美人か、個性的か、その人の好みで感じることが出来る。
それに、大体の人には、目が2つ横についていて、鼻が1つ真ん中にあって、口がその下にお座りしてる。
同じパーツの組み合わせなのに、ここに面白い結果が表れているのだ。
なので、別に美人じゃなくても、顔を見るのは、楽しいものである。
そのせいなのか、昨日のみゆきさんの映画も、ずっと、みゆきさんの顔を見ていたんだよね。
歌も良いけど、やっぱり、みゆきさんは、顔が好きなんだな。
ということで、今日も、朝の8時前に、大日のイオンシネマの前に到着。

さて、今日は、昨日のように、途中でトイレに行くなんてことは、絶対に避けなきゃいけません。
昨日、X(ツイッター)に投稿すると、オムツも有りとのアドバイスがありましたが、それこそ、大好きなみゆきさん(の映像)に会いに行くのに、男の子として恥ずかしいから、これは避けるべきだろう。
昨日も、Gパンで行ったんだ。
最近は、ずっと、Gパンを穿いている。
そして、Gパンの下は、もちろん、パンツだけだ。
Gパンというと、(最近は、ジーンズというのかな、)凡の学生の頃から、人気だったのだが、どこか、カッコイイとか、反体制とか、フォークソングみたいな言葉が感じられる服装だった。
なので、Gパンは、Gパンだけで穿くのが正統な穿き方だと、今でも思っている。
どんなに寒くても、もちろん、冬の北海道に行った時も、Gパンの下は、パンツだけだった。
でも、その心意気を、自ら捨ててしまったことがある。
みゆきさんの、あれは、夜会だったと思うけれど、特に寒い時期だったんだよね。
夜会を見て、そして、出待ちもしようという算段だったのだが、出待ちで、ずっと待っているのは、寒いだろうなと思って、Gパンの下に、ヒートテックみたいな温かい下着をつけてしまったのだ。
大好きな女性に会いに行くのに、Gパンの下にパッチというのは、あまりにも、カッコ悪い。
でも、1度、それをやったら、もう、2度目も同じだろうと、それから、何回かやってしまっている。
そして、今日である。
昨日のトイレ事件があってから、Xで、アドバイスもあり、温かくしていくことにした。
ということで、今日は、Gパンの下に、ヒートテックのヌクヌクを着た。
それだけでは、あんまりなので、一応、愛する人(の映像)に会いに行くというので、靴は、1番高いええやつを穿いて出かけた。
凡なりの余所行きである。

Xで、大福を見る前に大福を食べればいいというアドバイスもあって、これは、実施しやすい作戦なのだが、昨日買ってないので、朝は食べられていない。
んでもって、お昼も、リンガーハットで皿うどんを食ってしまって、大福を買いに行く時間がなくなってしまった。
とはいうものの、この大福の対策は、次のコンサートか映画で、実験してみようと思っている。
と、何か、前置きが、だらだらと長くなっちゃいましたね。
さて、みゆきさんの映画である。
やっぱり、美しいのひとことに尽きてしまう。
そして、可愛いとため息が漏れてしまう。
見ていると、みゆきさんは、やっぱり上手いなと思う。
歌が上手いのは、勿論だが、顔の表情の見せ方が上手い。
1曲を歌うなかでも、口の形が、下が広がって末広がりになったり、口角のちょっと内側が上がって四角っぽい口の形になったり、細いキッスのような口になったり、大きく開けて、上等なバイオリンのような声を出したり、いろんな口の形になっている。
普通の人ならね、歌う時の口の形のパターンは、それほど多くは無い。
ただ、口を上下に広げるだけだ。
でも、みゆきさんは、いろんな口の表情でもって歌い上げる。
なので、顔を見るだけで、何か、こころを動かされるものがあるのだ。
さっき、モノレールの女の子の脚と顔の話で、顔を見る方が好きだと書いたのは、ミニスカートのおっちゃんのトラウマが原因じゃなくて、みゆきさんの顔を、いつも、ずっと見ているから、顔の魅力に取りつかれたのかもしれない。
あの、みゆきさんの表情は、たぶん、みゆきさん自身、意識してやっているのだろうけれど、もし、自然な表情なら、みゆきさんは、天使か小悪魔であるに違いない。
今、顔の表情を作るのが上手いと書いたのですが、歌の歌い方も上手いよね。
これは、何も、ここで書かなくても、みんなが知っていることだし、凡は、みゆきさんの歌について、あーだこーだ言うのは趣味じゃない。
でも、映画を見て、上手いなあと感じるのは感じる。
そうだ、昨日、映画を見て、折角だからと、梅田まで出たんだ。
そしたら、JRの大阪駅のところで、エレクトーンをひきながら歌っている若い男の子がいた。
路上ライブというやつだ。
ちょうど、みゆきさんの「糸」を歌っていたのである。
男の子にしては、高音も出てたけれど、聴いても、何の気持ちも動かない。
どうしてかというと、ただ、歌っているだけだからだ。
詰まりは、工夫が無い。
歌を聴かせるための工夫、歌に臨場感を与えるための工夫、伝えたいことを伝えようとする工夫、そういうのが無いのだ。
この糸と言う曲だって、(みゆきさんのファンにしてみれば、もう、糸はええねんという気持ちだよね。もっと、いい曲あるのにね。)DVDに収められているみゆきさんの歌と聴き比べてみれば、天と地の差があることに気が付く。
歌を知らない凡が聴いても、みゆきさんが、1番と2番の歌い方を変えていることぐらい分かるんだよね。
みゆきさんも、あの糸だけでも、いろんな工夫をされているんじゃないかと思うんだよね。
前に、テレビで、美輪明宏さんが、ヨイトマケの唄の、「エンヤコラ」の部分は、それを言っている人の位置関係などを考えながら、声の出し方を変えているとおっしゃってられました。
みなさん、工夫されているんですよね。
やっぱりね、自分で作詞作曲した歌には、誰もが、何かしらの工夫をして歌ってる。
なので、やっぱり、カバーというのは、本人が歌うのと、全く違うんだよね。
ただ、断っておきたいのは、自分で曲を作ってなくても、その人のために提供された曲は、カバーとは違う。
例えば、工藤静香さんの「黄砂に吹かれて」とか「慟哭」なんて曲は、もう、工藤静香さんの曲になってるからね。
勿論、みゆきさんが歌う慟哭は絶品だけど、工藤静香さんが歌う慟哭も、唯一無二の表現だと思う。
「紅灯の海」という曲があるが、あれは、竹中直人さんに提供された曲だそうだ。
聴いてみると、大丈夫なのかと言う感じの歌い方なのだが、みゆきさんが、提供されたのだから、あれはあれで正解なのである。
どこかの、歌が上手いと言われて否定しない演歌歌手が歌う紅灯の海より、ずっと、良い。
、、、あれ?
どうしちゃったんだろう。
歌については素人だし、歌について書くのは、凡らしくないのだけれど、歌について書いてしまってますね。
また、歌会の映画に戻らなきゃ。
そうだ、今回の映画を見て、愕然としたことがある。
そして、ああ、凡は、みゆきさんの顔しか見てないんだなあと、つくづく、偏った見方をしていることに気づかされたのだ。
昨日書いた、「ひまわり“SUNWARD”」を歌っている時だ。
また、歌い終わった後の、みゆきさんの荒い息遣いの腹式呼吸の下腹の膨れたり引っ込んだりするお腹を、わくわくどきどきしながら待っていた。
すると、あれ?これ何?というものが映っていたのだ。
みゆきさんの左手首に、黄色い腕章のようなものが巻かれている。
これに初めて気が付いたのだ。
こんなに目立つ黄色いものを見落としていたなんて。
詰まりは、ずっと、顔と下腹だけみていて、腕にまで気が回らなかったということだ。
この曲も、コンサートで2回、今回の映画でも見ている。
まあ、コンサートは、遠かったので見落としは考えられるが、映画で気が付かなかったといううのは、どうも、落ち込んでしまう。
みゆきさんのことだ。
この黄色い腕章なのか、手首に巻いたものに、何かの意味があるのかもしれない。
黄色いリボンの代わりとか、そんなことなのかもしれない。
まあ、そのことについて考察したりは、やめておこう。
凡的で無いしね。
でも、ああ、ぜんぜん、見てないなあと実感して、落ち込んだ瞬間であります。
ひょっとしたら、コンサートをやっている時期に、話題になってたのかな。
知らなかったよ。
みゆきさんの顔とか、口とかを見て、エロティックを感じている場合じゃないね。
それと、今回も、ドキリとしたシーンを、1つ書いておこうかな。
映画の後半、「地上の星」の時だ。
みゆきさんは、赤いドレスを着ている。
そして、肩から、ひらひらの袖みたいなのが垂れ下がっているのだ。
あれは、何という名前なのか知らないが、肩からひらひらが、ダラリとある。
そして、歌っている時に、右腕を高く高く上に差し伸ばしたのである。
すると、そのひらひらが、これまた、ひらひらと、肩に落ちてきて、みゆきさんの白い二の腕が現れたじゃない。
しかも、ひらひらだから、二の腕から、脇までが、ノースリーブのように、見えているのである。
みゆきさんの白い二の腕は、もう、絶品に美しい。
その白さを見て、ドキリとしてしまったのであります。
ただ、話は、これだけじゃないのだ。
次に、今度は、左の腕を高々と上に差し伸ばした。
すると、これまた、そのひらひらが、ひらひらと落ちてきたなと思ったら、最後の脇がみえるところまでは落ちてこない。
一瞬、途中で止まった。
すると、みゆきさんは、小刻みに腕を、ぴくぴくさせて、(ように見えたのだけれど)その肩のひらひらを、下に落として、二の腕と、脇を、見せたのである。
いやね、ここが疑問なんだ。
凡には、みゆきさんが、腕を自ら動かして、肩のひらひらを落として、二の腕と脇を見せたと、そういう風に凡には見えたのだけど、果たして、そうだったのか、或いは、見間違いだったのか。
ここを、もう1度確かめるために見てみたいし、或いは、そこに気が付いた人がおられたら、教えてほしいものである。
もし、みゆきさんが、わざと、ひらひらを落として、二の腕と脇を見せたのなら、、、、小悪魔じゃないか。
見ている男性を、メロメロにするために、わざと、二の腕と脇を見せる。
相当な、エロティックなテクニックの持ち主ということになるよね。
エロの魔術師。
エロの天才。
エロの地上の星。
と言うことになるのだろう。
いや、そんなみゆきさんも、いいかもね。
ということで、今回は、途中にトイレに立つことなく、最後まで見終わりましたよ。
終わってから、リンガーハットの皿うどんを頂きまして、次の11時10分からの回を見に行くことにした。

昨日からで言うと3回目の映画。(難波も含めると4回目か。)
なんせ、休みなんだもんね。
ということで、今日の2回目も、無事、トイレには立たずに見終わりしました。
それにしても、リトル・トーキョーと、野ウサギのようにのダンスは、可愛かったなあ。
みゆきさんって、赤がイメージっていわれるけど、白い衣装も、最高に美しいし、似合っているね。
もう1回ぐらい見に行きたいところだけど、どうなるかね。
というか、今年のコンサートとか、そっちの方が気になるか。
ということで、みゆきさん、素敵でした。
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