前回に引き続き、「ありがとう」についてのブログであります。
前のブログでは、凡の情緒的な、ありがとうという言葉についての雑談でありましたが、今回は、偶然に見つけた八幡書店さんの武田嵩元さんのユーチューブで語られていました「『ありがとう』に言霊なし」というテーマについてご紹介がてら、これまた独り言を呟いてみたいと思います。
前も書いたのですが、武田さんがユーチューブで発信するなんて、ひょっとして、新しもの好きの目立ちたがり屋さんだったのだろうか。
素直にビックリであります。
でも、このユーチューブを見ている人は、かなりのマニアックな人だけに違いない。
何しろ、おっちゃんが、上から目線的な喋り方で、持論を語るだけの動画なんですもの。
まあ、これを見てる人は、八幡書店のファンであることだけは、容易に推測できるわけであります。
それを、凡も見ている訳なんですけれどね。
ここで、これを読まれている人は、たぶん八幡書店と聞いてもピンとこないと思いますので、ちょっとだけ、八幡書店さんのご紹介を。
八幡書店さんは、神道、仏教、まじない、占術、仙道、などなど、精神世界全般に関する本を出されている出版社だ。
古い文献などを復刻したり、他では、なかなか手に入らない本などがあって、不思議大好き凡には、とても魅力的な出版社というか、本を取り揃えておられる。
それで、この八幡書店さんで、何が楽しいかと言うと、定期的にパンフレットが届けられるのですが、それを読むのが楽しいんです。
普通の書店には置いてないような本が紹介されていて、その説明文を読むのがおもしろい。
たぶん、その1部は、社長の武田さんが書いているのではないかと思われる文章。
これまた、断定と上から目線の宣伝。
ただ、この上から目線が、最近のパンフレットは、かなりソフトになってしまっているので、ファンとしては、それが逆に残念なのではある。
他の人には書けない宣伝コピーなので、また過激なコピーになることを期待しているのであります。
そして、その社長というのが、何回も書いている武田嵩元さんなのである。
さて、「『ありがとう』に言霊なし」というユーチューブの話であります。
言霊というものは、なかなか難しいものである。
なので、凡には説明が出来ない。
そうだ、参考にしようと思って、昔買った八幡書店の「言霊研究入門」(小寺小次郎著)を出してきて、パラパラと眺めてみたが、まだ読んではいない。
なんや、まだ読んでないんかーいとツッコミを入れられるかもしれませんが、何しろノロマな凡でありまして、本を手に取っても、また読むのが億劫になっているのではあります。
んでもって、言霊についてなんだけれど。
言霊と言っても、いくつかの捉え方があって、研究する人によって、違った側面からアプローチしている。
音に基本を置く言霊。
例えば、「あ」とか「う」とか、そんな、ひとつの音の観点から考察する方法。
これは、なかなか意味の深いものでありまして、その音をどう解釈するかっていう本もでてはいるけれども、凡には難しすぎて、読んでもチンプンカンプンだ。
出口王仁三郎も、霊反し(たまがえし)と言って、複数の音が組み合わさった言葉を、わざわざ、1つの音に集約させて、その本質を探るなんてことをされている。
なかなか、難解ではありますが、興味深いものでもあります。
また、音を組み合わせた言葉としての言霊。
その中でも、2つあって、1つは、その言葉自体には、神秘な力をもっているが、意味の不明な言葉。
例えば、「ヒフミヨイムナヤコト」とか、神道なんかで唱えられたりするもの。
んでもって、もう1つは、聞いて意味の分かる言葉。
武田さんは、言霊じゃないと力説されていますが、「ありがとう」とかね。
また、小泉太志さんの「ととのう」というのが、それでもあります。
「ととのう」も、ありがとうと同じで、言霊じゃなくて、普通の言葉だとも解釈できなくはないのですが、小泉太志さんが、この言葉を言霊としてよく使っておられたそうだから、そこは、言霊なんだろう。
んでもって、その延長にある、もっと長い言葉の組み合わせ。
その例が、歌だ。
短歌だったり、或いは、みゆきさんの作った歌とかね。
昔の話で、災いが迫ってきた時に、短歌を詠むことで、その災いを消してしまったりね。
みゆきさんの歌だって、これは、武田さんも、また、ほとんどの人が否定するかもしれないけれど、あれも言霊なんだよ。
どんなに疲れていても、みゆきさんの歌を聴いたら、スッと軽くなる。
だから、いつの時代も、みんなが聴きたいと思うんだよね。
んでもって、これは誰か言っている人がいるのだろうか。
凡が、考えたオリジナルじゃないかと思うのだが、どうなんだろうと気になる言霊がある。
それは、人間の口、喉を通じて、音を発せられる前の、音になっていない音の言霊だ。
凡の目の前に可愛い女の子がいる。
凡は、その女の子の目を見て、そしてウインクをする。
大概の女性は、凡のイヤラシイ目のウインクでイチコロだ。
すると、女の子は、何とも言えない快感に襲われて、「あん。」と思わず声を漏らしてしまう。
いや、「あん。」とは声に出さずに、ただ、息だけがもれる音。
声にならない、声帯を使わない声。
それも言霊なのかもしれない。
でも、凡の言いたいのは、それじゃない。
それよりももっと前の段階で、さらに、無意識ではなく、意識のある状態での、声になる前の声のことだ。
凡は、無意識ではなく、ちゃんと意識をして声を発しようとした瞬間の、その前の状態の、声になっていない声の言霊があるんじゃないかと思うのです。
何かの言葉を発しようと思った瞬間、その思ったのは脳なのか、或いは、魂なのかが、イメージで発する言葉を組み立てた時の言霊。
まだ、音にはなっていないが、思考の中に波動として発生した言葉の音。
それもまた、言霊ではないだろうか。
何故、それが言霊かというと、人間は、言葉に依って思考する生き物である。
何かを考えたりするときに、頭の中で、言葉で考えている。
これは、人間特有の現象ではないだろうか。
でも、これがあるから人間は発達してくることができたとも言える。
何故、頭の中で、言葉を使って思考するのかというと。
言葉を発することが出来る口と喉を持っているから、言葉で考えるのじゃないだろうか。
だから、ここまで発達した社会を作ることが出来た。
同じような遺伝子を持つオランウータンは、言葉を発するようには口の周りの器官が出来ていないので、言葉で考えることをしていないのではないだろうか。
ただ、情緒と本能だけで行動している。
でも、人間は、言葉で思考するので、何かを発しようとすると、まず、頭の中で言葉を組み立てる。
頭の中で、組み立てられた言葉は、それは既に言葉であるから、たとえ、口から発せられずとも、こころの声で発しているから、言霊として活動を始めるのではないだろうか。
頭の中で、言葉で何かを考えた瞬間、それが言霊になる。
そう思うと、ただ単に、頭の中で考えていると思っていることが、実際に言霊を発した時のような結果を生むかもしれないのだ。
そう考えると、よほど、心を美しく清らなものにしないと、エライことになるよ。
凡なんて、いつも邪悪な事や、エッチなことも、、、たまにはね、頭の中で妄想したりする。
そんな妄想も、これまた言霊だってことになったら、どんな影響が出るのかと思ったらゾッとするね。
くれぐれも、心を清くして、生活しなきゃね。
と言う事で、この言葉になる前の言霊については、誰か言霊に詳しい人がいたならば、ご教示頂きたいものなのであります。
ということで、言霊についての説明が長くなってしまいましたが、この説明も、合っているかどうか、自信がありません。
もし、興味のある方は、他の言霊について解説されている方に、聞いてみてください。
んでもって、始めのユーチューブの「『ありがとう』に言霊なし」なのであります。
武田さんは、ユーチューブの中で、ありがとうを何回も唱えると幸せになりますとか、願いが叶いますということをやっている人は、「ありがとう中毒」だと説明しています。
そして、そんなことをするのは「性根があさましい」とまで言ってバカにしてらっしゃいます。
すごいね。
でも、その気持ちは、凡も解る気がするんですよね。
前回のブログで、凡の情緒的な、ありがとうに対しての感想を書いたのですが、その時に、ギブ・アンド・テイクの要素があるから嫌いだと書いたのでありますが、武田さんの性根があさましいに通じるところじゃないかと思う。
何か、良いことを、何か、ラッキーを貰うために、ありがとうと唱える。
それって、ギブ・アンド・テイクと同じじゃないかな。
まだ貰っていないラッキーを将来テイクするために、ギブをする。
ラッキーなことが欲しいから、先に、ありがとうって言っておこうみたいな。
でも、果たして、このありがとうを唱える開運法は、効果があるのだろうか。
ということで、ユーチューブの内容について、もっと書こうかと思っていたのですが、それについては、凡が書くよりも、興味のある方は、実際のユーチューブを見て頂いた方が間違いないので、ここにリンクだけ貼っておこうかなとおもう。
武田嵩元さんの「『ありがとう』に、言霊なし」はこちらから⇒⇒⇒
リンクが切れていたりしたら、ごめんなさい。
(勝手にリンクさせて頂いております。武田さん、ゴメンナサイ。)
今回のブログは、最後は、尻切れトンボみたいになってしまって、ゴメンナサイ。
んでもって、八幡書店さんのホームページは、こちらから⇒⇒⇒
と、八幡書店さんの宣伝みたいなことを書いておりますが、ファンとして書いているだけで、アフェリエイトなどとは関係ありません。
ということで、早く次のパンフレット届かないかなあ。
今回も、ぐだぐだで、尻切れトンボのブログになってしまいましたが、最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。


コメント
[天岩戸]を[筋交い]とするモノを西洋数学の送り返して来たモノので観ると、
[ながしかく](1×(e-1))の[鉤股弦]は、 1²+(e-1)²=(√(e²-2e+2))² に。
[筋交い]の方程式(e²-2e+2=0)の解は、 e=1±√2i に。
太陽(ヒ)の四区分 朝 昼 夕 晩 を[正方形](1×1=1)に託すと[√2](筋交い) に。
太陽(π)の四区分(ヨ)は、[√2](弦)で[原始正四角形](√2×√2=2) に。
ここに、[ヒ]の[ヒ]と巡りで、[フ] に。
ヒフミヨは時空間にて閉じている
i²=-1 の[黄泉]の国の[正方形]は、『ながしかく』が、大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面(2次元)からの送りモノとして眺めるとこう観える。 この風景は、絵本の力で・・・
もろはのつるぎ (有田川町電子図書館)
数の言葉ヒフミヨ(1234)のシンタックスとセマンテックスを百人一首の本歌取りで・・・
久方の光のどけきながしかく静心なく四角なるらむ
もろともにあわれと思へヒフミヨは根より他に知る人もなし
数の緒よ絶えなば絶えねながらえば数えることのよはりもぞする
ありがとう、ヒフミヨは言霊隠し数創るさん。
コメント頂き、ありがとうございます。
、、、、これは、難しすぎる。
それぞれの言葉と、それぞれの数式と、というか、もう、わたしには、ちんぷんかんぷんであります。
でも、こういうのを突き詰めて考えていくと、きっと、その先には、面白い世界が待っているんでしょうね。
わたしには、難しすぎるので、というか、もっと、情緒的に、感覚的に、これからも、考えられたらいいなと思います。
≪…情緒的に、感覚的に、これからも、考えられたら…≫で、〇△▢と数の言葉ヒフミヨの風景の記事を見つける。
♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪
≪…日本文化の面影を見つける…≫で、数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】に託す。
「初めて語られた科学と生命と言語の秘密」に出てくる用語【ヴィークル】に[絵本]と[歌謡の本歌取り]を捧げる。
もろはのつるぎ (有田川町ウエブライブラリー)
「愛のさざなみ」の本歌取りで
[ i のさざなみ ]
この世にヒフミヨが本当にいるなら
〇に抱かれて△は点になる
ああ〇に△がただ一つ
ひとしくひとしくくちずけしてね
くり返すくり返すさざ波のように
〇が△をきらいになったら
静かに静かに点になってほしい
ああ〇に△がただ一つ
別れを思うと曲線ができる
くり返すくり返すさざ波のように
どのように点が離れていても
点のふるさとは〇 一つなの
ああ〇に△がただ一つ
いつでもいつでもヒフミヨしてね
くり返すくり返すさざ波のように
さざ波のように
[ヒフミヨ体上の離散関数の束は、[1](連接)である。]
(複素多様体上の正則函数の層は、連接である。)
数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[岡潔の連接定理]の風景が、多くの歌手がカバーしている「愛のさざなみ」に隠されていてそっと岡潔数学体験館で、謳いタイ・・・
「八木節」(江利チエミ)の本歌取りで
[ ヒフミヨは△廻し□なる ]
アー
ちょうと出ました 三角野郎が
四角四面の櫓の上で
音頭取るとは 恐れながら
しばし御免を こうむりまして
何か一言 読みあげまする
稽古不足で覚束ないが
平にその儀は お許しなされ
許しなされば ヒフミヨかかるで
オーイサネ
大和言葉のヒフミヨは
度胸すぐれた△野郎
〇泣かせの回転体で
取っておさえて三点ふかせ
今宵かぎりと〇から消える
ここにあわれはπと一よ
〇の形見のnを背負い
ひふみよいむなやこと
オーイサネ
聞いておくれよのろけじゃないが
逢うた初めはひと目で惚れて
思い込んでる〇の一
昼はまぼろし夜は夜で夢に
見ると云うても覚めればπ
一生他人にならないように
早いところで都合をつけて
そわせたまえや 〇と△
オーイサネ
「北空港」の本歌取りで
[ 円周率 ]
〇の一 □に逢えて
カオスな一に 灯りがともる
〇と▢は一緒だよ もう引っ付いている
なぞり逢おうよ
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
〇の一 □に惚れて
ヒフミヨ渦に πが見える
信じてもいいですね ヒフミヨ放射だけ
数え尽くすわ
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
〇の一 舞い散る数も
ヒ(〇・π)とヨ(□・i⁴)で 咲く花になる
どこまでも一緒だよ もう離れずに
夢(√・平面)を探そう
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】へのエールとしタイ・・・
自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))のキュレーション的な催しがあるときの[応援歌]になるといいなぁ~
Posted by 「比叡おろし」(汚れちっまた悲しみに…)
ありがとう、πと一〇と□のなぞりアイさん。
これはまた、難解なコメントですねー。
わたしには、これまた、チンプンカンプンであります。
「初めて語られた科学と生命と言語の秘密」もまた、難解そうで、私の手には負えないかんじに思えます。
それにしても、「歌謡の本歌取り」というのは、面白そうな手法ですね。
まあ、内容については、やっぱり、チンプンカンプンではありますが。
そして、その選曲も、「愛のさざなみ」と、マニアック。
ひょっとして、熟女好みとか。(あ、これは、失礼しました。(笑))
それにしても、言葉は、不思議なものであることは、やっぱり、そうだと、実感します。
そして、そう思うと、普段、大切に遣っていないなと、反省することもあります。
ということで、コメント、ありがとうございます。
ここに訪問できて[ありがとう]ございます。
「もろはのつるぎ」の感想の記事を見つけます、井上円了の「仮怪]と[真怪]との境界線を想う・・・
もろはのつるぎ
わかっているようでわかっていない事は山ほどある。自分は知っていると思っていても実は見当違いの理解をしている事もおそらく山ほどある。
(1) —————————————
サン=テグジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)*1」の冒頭で主人公が6歳の頃に書いた絵のエピソードが出てくる。〔*1 内藤濯の訳語〕
もろはのつるぎ_f0171581_22395522.png
主人公がこの絵を大人に見せて「こわいでしょう?」と聞いてまわると、大人は皆、「どうして帽子がこわいの?」
〔以下の引用は青空文庫「あのときの王子くん(Le Petit Prince)大久保ゆう訳」から〕
「この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。」
「おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。」
「すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。」
(2) ——————————————
下の数字列の中に「3」はいくつあるでしょう?
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
普通の人は目がチラチラしながら数えて、数秒から十秒近くはかかるのではないだろうか?見落としたりカウントを間違えてしまうかもしれない。
「数字に色がついて見える」共感覚の持ち主なら正解をほぼ瞬時に答えることができる。彼(彼女)には、例えば次のように見えるから
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
(3) ——————————————
NHKのチコちゃんで四つ葉のクローバーを探すのを放送していた。簡単に見つける人はあっという間に手にいっぱい集められるのに、そうでない人は場所を変えても見つけられない。私は後者で、悔しいことに今までトライして見つけたことが一度もない。20cmや30cm四方の緑の群落を目でサーチしたとき前者には特別な見え方がするのだと思っている。
(4) ——————————————
ラマヌジャンというインド人の数学の天才がいた。
病床の彼をケンブリッジ大学のハーディが見舞ったときのエピソード。
ハーディが
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」と言うとラマヌジャンは即座に次のように答えたという。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 123 + 13 = 103 + 93
ラマヌジャンは1729が
A = B3 + C3 = D3 + E3
という形で表すことのできる数Aのうち最少のものであることを即座に指摘したのである。ラマヌジャンにとって「すべての数字は友達」のようなものだった。
(5) ——————————————
数学者の岡潔は随筆集「春宵十話」のなかで書いている。
「人の中心は情緒である。(中略)数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」
「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見たときの気持ちだと答えたい。」
「大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。『ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている』すると、傍観していた他の一人が『ずいぶん変な数学ですなあ』と突然奇声を上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。」
(6) ——————————————
和歌山県には昨年初めて行った。初めて耳にするクマゼミの騒音のような鳴き声にビックリした。和歌山市と有田市の往復だったが山頂まで広がるミカン畑とその傾斜には驚いた。何十年も「Arita」と読んで疑わなかったが「Arida」と濁ることを知って愕然とした。十代の頃たしか田辺だったか全く見知らぬ同世代の男性から手紙をもらった。数学についての内容だったと記憶している。返事は出さずじまいだった。
有田川町は有田市の東南東に位置し有田川の上流になる。明恵上人の生誕地でもある。有田川町では絵本コンクールを実施していて、2019年(第9回)のコンクールの作品がネットで読めるようになっている。
(7) ——————————————
「もろはのつるぎ」はそのコンクール受賞作品の1つ。
私は大人になってから、見ている「漢字」が字画ごとにバラバラに分解するというイメージが強くなって困ったことがある。たとえば「字」という漢字はそれはそれで読めるのだが、ふとした瞬間に「ウ」と「子」に分解するという奇妙な感覚である。
「奇」が「大」と「可」に。「妙」が「女」と「少」に、という具合。それぞれが自己主張をし始めるような感覚。
だらか「もろはのつるぎ」の内容は感覚的に何となく理解できる。
線をひっぱったり曲げたりつなげたりするのはAdobeの「Illustrator」のベジェ曲線の「アンカーポイント」や「コーナーポイント」「クローズパス」などの操作に似ています。「Illustrator」は見かけは「お絵かきツール」、でも奥では膨大な数学的な処理が行われている。
by nsb01474
ありがとう、ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな(自然数の量化)さん。
これまた、難しい内容のコメントで、拝読しながら、どういう意味?なんて、考え、考えしながら、読ませていただきましたが、実際のところは、
よくわかっていません。わたしの頭では、難しすぎる気がして。
とはいうものの、漢字が、バラバラに、分解するというお話も、分からないけれども、面白いなと感じました。
ということで、お返事も、何か分からない感じになってしまいましたが、コメントしていただいて、ありがとうございます。