平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(1363)ありがとうは、ありがたい言葉?その1。

あーだこーだ

ここ何年か、漠然と考えていたことがある。

「ありがとう。」という言葉についてである。

世間の人は、このありがとうという言葉に、あまりにも高評価を与えすぎているのではないかと思うのである。

確かに、ありがとうという言葉は、素晴らしい言葉だ。

それを使った人も、聞いた人も、幸せな気持ちになる言葉には違いない。

なので、このありがとうという言葉を否定する気持ちは全くない。

でも、他に素晴らしい言葉もあるじゃないかと思うのだ。

そして、そんなことをブログに書いてみようかなと思ってた矢先である。

偶然に、ネットを見ていたら、ユーチューブで八幡書店の武田崇元さんが、「『ありがとう』に言霊なし」ということを喋られている動画を発見した。

それを見た時に、ああ、これがシンクロというものかと思った。

内容は違うのですが、同じ「ありがとう」について、語っているじゃないか。

しかも、その内容は、凡も思っていたことにも通じるものがあるし、興味深い内容だ。

というか、武田嵩元さんが、ユーチューブをしていることがビックリである。

見た目、絶対にユーチューブなんてしないって言う風に見えるんだよね。

まあ、それは置いておいて。

このありがとうという言葉について、凡なりの評価を書いてみようかなと思うのであります。

ただ、武田さんのユーチューブも興味深いものでありまして、この内容についても、ちょっと触れたい気もするのですが、そうすると、「なあんだ。武田さんの受け売りじゃないか。」と思われそうで嫌なので、武田さんのユーチューブについては、この後の次回のブログで感想を書かせて頂いて、今回のブログでは、凡の漠然と思っていたことを、気楽に書いてみたいと思うのであります。

ただ、凡は、武田さんのような深い理解の結果としての、ありがとうの評価ではなくて、ただ、何となく、こう感じるみたいな内容なので、雑談として読んでいただければ、気が楽です。

凡は、長年、接客販売という仕事をしてきた。

なので、ありがとうという言葉は、もう1日に、何百回も口に出して言っているだろう。

そうだ、ここで、ありがとうを何十回、いや何百回も唱えるという開運法をご存じだろうか。

ちょっと前に流行って、今もなを、それを実行されている方もいるだろう。

当時、それを聞いて、成る程と思ったのでありますが、それなら、凡の境遇も、もっと良くなってもいいのではないかと疑問に思っていたのです。

今まで、ありがとうと言った回数は、もう数えきれないほど多い。

それだったら、宝くじの1つでも当ててくれてもいいじゃない。

でも、何の変化もないし、どちらかというと辛いことの方が増えた気もする。

ありがとうと印刷されたシールなんかもあったな。

これを貼ったら、その周辺が良い波動になるとか聞いて、凡も水の容器に貼ったことがある。

波動の本で読んだけれども、その本には、水に、ありがとうと声を掛けたり、文字を見せたりして氷の結晶を作ると、見た目も綺麗な結晶が出来て、逆に、悪い言葉の文字を見せたり、声を掛けたりした氷の結晶は、いびつな結晶になるという。

この時も、成る程と感心をしたのだけれど、今は、そんなことは無いと思っている。

もし、そういうことが起きるのであれば、それは、ありがとうという言葉が起こした現象では無くて、人間のイメージが、量子的に水に影響を及ぼして、イメージ通りに氷の結晶になったのではないかと思う。

実験者が、観察している時だけ、期待した結果が起きる。

誰か、いちど、どこかの国の、誰もいない荒野で、日本語の分からない外国人に、実験者の知らない時に、ありがとうと書かれた文字を水に見せて作った結晶と、悪い言葉の文字を見せて作った結晶が、どう違うかを実験して欲しいものである。

きっと、どっちも同じ結晶になるのではないだろうかというのが、凡の推測だ。

と、こんなことを書き始めたのでありますが、こんなことを書きだすと、うだうだになってしまうので、この辺で置いておいて、ここからは、凡の、もっと情緒的なありがとうの感想を書いてみたいと思う。

ありがというという言葉は、これを発する時は、どういう時かと言うと、誰かに何か良いことをしてもらった時に発する言葉であると思う。

もしくは、自分が幸せな状態だと認識している時に、その状況に対して発する言葉でもある。

詰まりは、誰かに何か良いことをしてもらうか、または、今現在、良いと感じる状況にいるという事が前提となるのである。

と考えると、ありがとうという言葉は、そこまで、立派な言葉でもないような気がしてはこないだろうか。

どうでしょうか。

何か良いことをしてもらったから、ありがとう。

プレゼントを貰ったから、ありがとう。

それって、普通じゃない。

当たり前の事。

詰まりは、ギブ・アンド・テイクなのである。

テイクに対して、ギブのありがとうという言葉。

テイクがあって、初めて、ありがとうと言えるのだ。

何も良いことが無ければ、言う事の出来ない言葉。

ひとりぼっちなら、言えない言葉。

そう考えると、どうにも悲しい言葉じゃないか。

そして、少しばかりイヤラシイ言葉でもある。

今の世の中、テイクばかり考えてしまうのが普通だからね。

凡は、ギブ・アンド・テイクで考えることには、美しさがないと思う。

やっぱり、美しいものは、無条件であるに違いないのである。

幸せな状況にいて、ありがとうと言う場合も同じだ。

衣食住が豊かであって、初めて、ありがとうと言う事が出来る。

こんなことを言うと、「そんなことはない。どんな状況だって、ありがとうと思うことが大切なんだ。」と説明してくれる所謂、ありがとうの達人みたいな人がいる。

上司に叱られても、それは自分のために言ってくれていると思えばいい。

だから叱ってくれた上司に、ありがとう。

たとえ、病気になっても、それは、何か自分に欠けていたものを気づかせてくれるために、神様が、病気にしてくれたんだとかね。

だから、病気にしてくれて、ありがとう。

まあ、本人が、それで幸せなら、凡が、どうのこうの言うこともないのではありますが、凡は、そんなありがとうは嫌だ。

凡には、お姉さんがいた、、、らしい。

凡の子供のころから、仏壇には、黒白フィルムの赤ちゃんの写真が飾ってあった。

それが、凡のお姉さんである。

でも、生まれて4日後だったかに、肺炎で死んでしまった。

やっと、この世に生まれてきて、たった4日で死ぬなんて、こんな悲しいことはあるだろうか。

果たして、凡の姉は、その時に、生まれてきて、ありがとうと思っただろうか。

きっと、もっと生きて、美味しいものを食べたり、素敵な人と巡り合ってデートしたりしたいと思って死んだんじゃないだろうか。

まあ、赤ちゃんなので、そんな具体的なことは思ってなかっただろうけれどね。

でも、生きたいとは思っていたに違いない。

そんな状況で、ありがとうと言えただろうか。

或いは、凡の姉も、ありがとうの達人で、温かい布に包んでくれて、ありがとう、ミルクを飲ませてくれて、ありがとうとか、たった4日間だけれど、そんなことを思ったのかな。

もし、そうなら、余りにも悲しいありがとうじゃないか。

凡の母親は、絶対に、姉の運命に、ありがとうとは言わないと思う。

これは断言できるね。

何が言いたいかと言うと、ありがとうは、何か良いことが起こるという前提がある場合に限って発する言葉だという事だ。

詰まりは、条件付きの良い言葉ということなのである。

凡は、美しいものとは、無条件なものだと思う。

そして、絶対的であると思う。

いや、この世に、そんなものはあるのかと思うだろうけれども、確かに、それは存在する。

みゆきさんだ。

みゆきさんは、顔も、声も、性格も、何もかも、無条件に美しい。

そして、誰かと比較して綺麗だとか、そんな次元では無くて、ただ、この空間に清々しく存在している絶対的な美しさを持っている。

、、、とまあ、こんなことを書きたしたくなるのは、最近のみゆきさん欠乏症のゆえでありまして、どうしても、付け加えなきゃ気が済まなかったのね。

何しろ、もう随分と、コンサートもないし、みゆきさんの顔を見ることもなく、声を聞くこともなく、ただただ、寂しいのでありまして、どうにかなっちゃってるのね。

でも、みゆきさんという文字を書いたので、まあ、ちょっとは気が晴れたような気がするので、先に進みましょうか。

ということで、ありがとうという言葉は、普通の言葉であって、日常生活にとっては、遣う人も、言われた人も、幸せにする魔法の言葉ではあるけれども、ギブ・アンド・テイクのような条件付きの綺麗な言葉であるということだ。

どうも、ありがとうを、貶めているような内容ではありますが、ありがとうは、素晴らしい言葉でもあります。

では、ありがとうより美しい言葉は、ないのだろうかと考えたことがある。

詰まりは、無条件の言葉。

その時に、閃いたのが「愛しています。」という言葉だ。

「みゆきさん、愛しています。」という場合の言葉である。

と、また、みゆきさんを登場させてしまいました。

この「愛」という言葉には、色んな意味があると思うけれども、ここでは、相手を大切に思う心ということにしておこう。

愛していますという言葉は、無条件だ。

なので、美しい。

例えば、みゆきさんは、凡の事を知らないし、知らない訳だから、何とも思ってはいないだろう。

でも、凡は、みゆきさんに愛していますということが出来る。

或いは、もし、みゆきさんが凡を知っていて、凡の事を大嫌いだと思っていても、凡は、自信をもって、みゆきさんに、愛していますと言う事が出来る。

みゆきさんが、横たわっている凡に、素っ裸で馬乗りになっている。

そして、「凡ちゃんなんか、殺してやる。」なんて言いながら、凡の首を絞めている時だって、みゆきさんの肌の温もりを感じながら、「みゆきさん、愛しています。」と言うことが出来る。

、、、と、これまた、みゆきさんを素っ裸にしてしまって、妄想とは言え、ゴメンナサイ。

みゆきさんに愛していますというための前提なんて必要がない。

凡の姉も、母親を見て、まだ目は見えてはいなかっただろうけれど、母親を感じて、愛していますと思ったに違いないし、母親も、子供を見て、愛していますと思ったに違いない。

愛していますと伝えるのに、ただ、その気持ちがあればよいのである。

なので、ありがとうという言葉より、凡は、愛していますという言葉の方が、美しいと思うのであります。

みんなは、どう思われるでしょうか。

ということで、今回は、ありがとうについての雑談のようなブログを書きたかったわけなんです。

、、、ということは、愛していますには、パワーがあるのかもしれないよね。

美しい言葉だからね。

詰まりは、開運法に使えるのかもしれない。

通勤電車の中で、ミニスカートの女の子を見たら、愛しています。

街中で、サラサラロングヘアーの女子大生を見たら、愛しています。

お店で、ちょっと色っぽい熟年の女性を見たって、愛しています。

愛していますパワー!

うん、これで、開運間違いなしだね。

、、、と、これまた、アホな話を書き添えなきゃ気が済まない凡なのではありました。

愛していますで、開運なんて、そんなことを考えたら、そこにギブ・アンド・テイクの気持ちが付いてきちゃうからね、そんな開運法は、やめておきましょう。

愛していますを、何かの方法に使っちゃいけない。

ということで、凡の情緒的な、ありがとうについての話にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

次回は、武田嵩元さんのユーチューブで語っていたありがとうについて触れたいと思うのでありますが、内容は、ユーチューブで語っておられますので、凡は、ただ、その紹介ぐらいになると思いますので、極簡単なブログになるかもしれませんが、お付き合いくださいましたら幸甚です。

そして、最後に、みなさま、愛しています。

追伸。

「ありがとう」という言葉は、普通の言葉だけれど、「あ・り・が・と・う」という言葉は、チョー素敵な言葉だという事は、ここに付け加えさせていただきます。

これは、みゆきさんが好きな人だけ解る追伸ではあります。

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