12月5日(火曜日)。
中島みゆきさんの福岡サンパレスで行われた夜会工場vol.2の時のブログであります。
ネタバレ的な内容を含んでいますので、まだセットリストとか見たくない方は、ご注意くださいませね。
さて、着席を促すブザーが鳴る。
舞台では、すでに演奏者がスタンバイしていて夜会のテーマ曲「二雙の舟」のインストが流れる。
ここで、凡は、今、その時のブログを書こうとして、今回購入した夜会工場vol.2上演台本というものを何気なく眺めていた。
すると、あることに気が付いた。
凡は、今まで(にそうのふね)を、「二隻の舟」と書いてきた。
でも、パンフレットには「二雙の舟」と書かれている。
一体、どっちが本当なのだろうか。
凡は、みゆきさんの歌の歌詞については、まったくもって、どうでも良い。
みゆきさんの歌の歌詞について、解説などしようとは思わない。
だって、凡が好きなのは、みゆきさんの見た目であって、また声であって、また、醸し出す雰囲気だからだ。
でも、この二隻の船については、以前にブログに書いたことがあって、なので、「二隻」なのか「二雙」なのかが気になるのであります。
みゆきさんの歌の歌詞については、どうでもいいなんて書いたけれど、それにしても「二隻の舟」は、今更ながらですが、素晴らしい曲ですね。
そう思っていた時に、ある本に出会った。
「差別後からはいる言語学入門」田中克彦著。(ちくま学芸文庫)である。
そこで、この「二隻の舟」に使われている「隻」についての記述があったのだ。
「隻」は、「本来2つあるものの内の1つ」という意味がある。
これから考えると、「二隻の舟」というのは、本来、男女が対になって1つである状態が、何らかの理由で2つに分かれた、1つ1つの舟の2つの舟という意味になる。
田中先生は、この「隻」を「片」と同じ理由で、世間では差別語として位置づけられていることについて述べられている。
どう語られているのかは、凡が説明するには誤解をもって受け取られると困るので、説明は止めておきますが、「隻」は、「片割れ」とか「片親」とかと同じ意味だと指摘されていた。
面白いなと思った。
なを、先生は、それを差別語だと批判している訳ではありませんということを付け加えておきます。
でも、もし「二雙の舟」なら、少しニュアンスは軽くなる。
つまり「雙」という字は、「双」の旧字だから、「双」自体に「ふたつの」という意味があるから、「二雙の舟」も単に「2つの舟」という意味になる。
みゆきさんファンなら、こんなこと常識で、誰でもその理由を知っていることなのかもしれませんね。
それに、さっき言ったように歌詞には興味がないので先に進んでいこうと思う。
「二隻の舟」の曲が流れる中、舞台上ではスタッフが工場で働く演技が始まる。
この辺りは、前回と同じだ。
そして、いよいよ、みゆきさんの登場。
もう、この瞬間、ウットリしてしまう。
凡愛用の双眼鏡「みゆきさん拝見号」を取り出して、そのみゆきさんの顔を拝見する。
どうにも可愛いね。
さて、みゆきさんのトークの流れで、舞台上に設置された映画館のシートに座って1曲目が始まる。
「泣きたい夜に」
ツナギの上にコートを着たみゆきさん。
途中、寒そうに、冷たくなった指先を温めるように丸めた指先を内側にして「はーっ。」と息を吹きかけるような仕草をした。
もう、ダメだ。
指先というのは、何かを表すときに使われる身体の部分である。
そして、何かに見立てて、外に向かって発信する身体の部分だと思う。
仏像も、その指で印を結んでいる。
あの印の形で、何かの力や意味を外に向かって発信しているのである。
みゆきさんの柔らかく丸められた指先は、女性の悲しさを、それだけで表している気がした。
あの指先を丸めて「はーっ。」だけで、「泣きたい夜に」の内容をすべて伝えているんだ。
つまりは、もう、みゆきさんは、映画のシートの場面では、歌う必要なんてなかったんだ。
ただ、座って、指先を「はーっ。」。
それだけで、もう十分だ。
もう、充分なんですよ、ね、みゆきさん。
とはいうものの、凡は、みゆきさんの声も大好きなので、ここは黙って声に耳を傾ける。
何とも言えない素敵な声であることか。
ただ、この指先「はーっ。」に関しては、5日の福岡公演ではやったのですが、フェスティバルホールでは、やらなかったと思う。
或いは、見落としているのかもしれないが、公演によってみゆきさんがアドリブでやっているのかもしれない。
来年のフェスティバルホールでも見たいなと思う。
「泣きたい夜」が終わったら、次は、「Maybe」なのだけれど、これは中ちゃんが担当したので、置いておきたい。
そして、次の歌が始まった時に、凡は失神するかと思ったのである。
今回の夜会工場vol.2が決まった時に、どんなみゆきさんが見たいかなと、凡自身が想像した。
シャングリラのメイド服も可愛いし、花の色はのお祭りの衣装も絶品だ、それに、サーモンダンスもいいし、アマテラスの古代の衣装も、どうにも美しいし、、、、もう上げて行ったらキリがない。
まさか、シャングリラの「怜子」は、無いだろうと思っていたけれど、今回の夜会工場vol.2を見たら、それもアリかもしれないと思う。
さて、中ちゃんの歌が終わって登場したみゆきさんは、トランプ柄のピンク色のパジャマに、髪は栗色でアップにして、丸いカールをいっぱいつけて、大きな枕と目覚まし時計を持って登場。
やられた。
どうにも、やられたのであります。
まさか、邯鄲の、あのパジャマ姿で登場するとは思わなかった。
いや、1番見たい姿だったけれど、さすがに無理かなと思っていたのです。
でも、今、目の前に、というか2階からだから距離はあるけれども、目の前に、そのパジャマ姿のみゆきさんがいる。
どうにも、その瞬間トロけてしまった。
もう、ぐにゃぐにゃだ。
今回、夜会工場vol.2をやると知ってから、夜会のDVDを全部見てから参加しようと思っていたのですが、結局、時間が無くて1本しか見ることができなかった。
その1本が「KAN(邯鄲)TAN」だった。
そして、その映像の中の、パジャマ姿のみゆきさんが可愛いなあと感じ入っていたところなのであります。
そのみゆきさんを今、見ているのだ。
しかも、目の前にいるみゆきさんは、DVDの中のみゆきさんより、遥かに可愛くて、美しい。
モチノロン、DVDの昔のみゆきさんは、腰を抜かすほど可愛い。
もし凡が若いころに、DVDの映像を見ていたら、素っ頓狂な声でハトポッポを歌いながら、素っ裸で梅田の阪神百貨店の前を走り回っていたかもしれない。
でも、まあ、素っ裸になれるほどの自信は、凡にはなので思いとどまったかもではありますが。
と、下の話はどうでもよろしい。
兎に角だ、昔のみゆきさんのパジャマ姿は、どうにも可愛かったのであります。
なのだけれど、今目の前にいる、現在のみゆきさんは、これはそれを超えている。
どうしようもなく美しいのである。
凡は、最近になって、みゆきさんを好きになった。
なので、今のみゆきさんが好きなのだ。
凡の目の前にいるみゆきさんは、年齢は凡より上である。
でも、若い女性の可愛らしさを全身で見せているのだ。
始め出てきたときに、付けまつ毛や、メイクを、さっきの泣きたい夜にから、変えたのかと思った。
それほど、表情が違って見えた。
目を伏せると長い付けまつ毛が、優しさに満ち溢れた笑顔に、より一層の可愛らしさを現す。
普通ならね、ただピンクのパジャマを着ただけじゃ、こんな風に少女のような可愛らしさを見せることはできないよ。
ただ、ピンクのパジャマをきた女性でしかない。
その周りの空気は、普通に流れている舞台の空気だ。
でも、みゆきさんは、正しく、可愛い少女である。
それは、ただパジャマを着ているのではなくって、少女であり、若い女性の、可愛さ、美しさという波動みたいなものを、身にまとっているからに違いない
。
なので、みゆきさんは、可愛い少女であり、みゆきさんの周りは、可愛い少女のいる空間であり、みゆきさんの舞台は、可愛い少女が演じている舞台になって、みゆきさんのいるこの日本は、可愛い女性のいる日本に変質してるのである。
詰まりは、みゆきさんの周りの時空がすべて可愛い女性としてみゆきさんを存在せしめているようだ。
気が付くと、凡は、どうにも恥ずかしい顔になっている。
満面の笑みだ。
凡も気持ち悪いから、キリっと表情を元に戻す。
どうにも、みゆきさんを見ると、相好を崩してしまうのは仕方がない。
このあと、熱病、最悪と続くが、これはみゆきさんが登場しないので置いておく。
そして、またしてもみゆきさんが登場。
そして、またしても、凡が見たかったみゆきさんの衣装なのであります。
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