平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(519)ごちそうノート。白いマーボー豆腐は母の味。

凡は中華料理が好きだ。
熱気の満ちた厨房で、吹き上がる炎に中華鍋をランニング姿のオッチャンが振る。
醤油だか何だかそんな調味料を適当にお玉にすくって鍋肌に回しかけるとジャーンと香ばしい匂いが立ち上がる。
そんな勢いが好きなんだ。
神戸の南京町にある民生なんかも、今は高級中華料理路線になってしまったけれど、凡が学生だったころは、そんな風景を見ることができた。
変わってしまったことを寂しく思うのは発展することを億劫に思うだけのノスタルジアでしかないのでありまして、どうにもいけません。
もっともっと高級路線を突っ走れとエールを贈るべきなのかもしれない。
とはいうものの、中華料理の調理方法は何も中華鍋でジャーンだけではない。
もっと繊細なものもあるだろうけれど、イメージとしてはジャーンなんだよね。
そんな中華料理を食べに行った場合、料理を注文するときに、或いは注文を迷った時に、大体において間違いがないという料理がある。
麻婆豆腐である。
酢豚や八宝菜などは、お店よって当たり外れがあるものだ。
でも、麻婆豆腐はどのお店でも美味しい。
なのだけれど、不思議なことに麻婆豆腐ほどお店によって味付けの違う料理はないのである。
あるお店は、本格的な四川の味付けだったり。
あるお店は、辛さを押さえた日本人向けの味だったり。
それでも、やっぱり美味しいのである。
凡の好みで言うと、思いっきりホアジャオ(花椒)と呼ばれる山椒をたっぷり利かせた四川風が好きだ。
あの唐辛子の辛さとホアジャオのシビレは、舌から脳へダイレクトに細胞を揺さぶるような刺激を伝えてくれる。
つまり、コクのある美味さと脳を刺激する快感の両方を、食べるという行為で満たしてくれるのである。
10年ちょっとぐらい前のことなんだけれど、大阪の千里中央に千里中華街という本格的な中華料理店を集めたエリアがあった。
普通の人には人気がなかったようだけれど、凡は大好きだった。
そのエリアに四川麻婆豆腐店というお店があって、本場の味を提供していた。
凡はモノレールに乗ってまでも食べに行ったのでありました。
あの麻婆豆腐は頭のてっぺんから汗がダーッっと流れてくるんですよね。
しかし、凡のお気に入りのお店はつぶれるというジンクス通りにエリア自体がなくなってしまった。
関西には王将という中華料理店がある。
安い早いというのが特徴だ。
そんな王将でも麻婆豆腐を注文するのだけれど、あれは麻婆豆腐なのだろうか。
一向に辛くないので、激辛でと注文をしたことがあったのだけれど、辛くなかった。
とはいうものの、いつも注文をしてしまう。
麻婆豆腐を作る際にもっとも重要な工程がある。
それは豆腐を先に湯通しすることである。
安物の中華料理店では、これを省くことがあるが、あれはイケナイ。
この湯通しについては、あく抜きだとか、硬さを調整するだとかの理由をいう料理人もいるだろうけれど、凡の理由はそれじゃない。
そんなものはどうだっていい。
凡には食べてもそんな違いは分らない。
凡がそれを重要視するのは、豆腐の芯のところの温度のゆえである。
鍋で炒める前に湯通しすることで、ジャーンと短時間で炒めても中まで豆腐が熱く仕上がるんだ。
この湯通しは、家庭で麻婆豆腐を作る時には、多分やらないのではないだろうか。
少なくともミニボンはしない。
そのまま鍋かフライパンに具を入れて炒めてから豆腐を入れて市販の麻婆豆腐の素を入れる。
そんな風に作るから豆腐の芯がまだ熱々じゃないこともある。
でも、それを指摘すると「作っている人が1番エライ。」とくるものだから、言わないのではある。
そんな、どこで注文しても間違いのない料理の麻婆豆腐をであるけれど、時々、あの麻婆豆腐をを食べたいなと思う麻婆豆腐がある。
亡くなった母が作ってくれた麻婆豆腐である。
あれは、麻婆豆腐をと言えるのだろうか。
四川の原型とは全く違うものであって、しかも日本全国のどこの中華料理店でも出されているだろう麻婆豆腐をのように赤い色ではない。
色んな具材を使っているから何色とは断定できないが、敢えていうなら白色だ。
ひき肉をたっぷりのショウガとたっぷりの胡椒で炒めて、豆腐とたっぷりのネギを入れて煮込んで片栗粉でとろみを付ける。
滋味あふれる中に胡椒の刺激が食欲を増進させる。
そんな麻婆豆腐が凡は大好きだった。
大好きだったのだけれど、母が亡くなってしまっては、もう食べることが出来ない。
たまに無性に食べたくなるのだけれど、どうにも我慢するほか仕方がないのである。
そんなある時に京阪電車の車内吊り広告に、ヒガシマル醤油の宣伝で「白い麻婆豆腐」というレシピをホームページで紹介していることを知った。
それを知って、これじゃないかとも持って、ミニボンに作ってもらったのですが、何か少し違うんだ。
胡椒の利かし方なのかもしれない。
ショウガやネギの量なのかもしれない。
とはいうものの、作ってくれたミニボンには感謝だ。
何と言っても、作ってくれる人が1番エライのでありますから。
そんな事を思うと、凡の母親の味というものは、白い麻婆豆腐なのかもしれないと思う。
今もこんな文章を書いていると、あの麻婆豆腐が食べたくなってきた。
そこで思うのである。
母親も、何も見ずにあの麻婆豆腐を作ったのではないだろう。
母親の創作というものではないに違いない。
と考えると、母が若かったころに、何かの料理本に書いてあったとか、誰かに教えて貰ったとか、兎に角そのレシピのソースがあるはずだ。
ということは、そのレシピを本で読んだ、或いはそのレシピを教えて貰った人は、母親以外にも沢山いてもいい理屈である。
そこで、こう考えるのである。
そんな白い麻婆豆腐をを昔に習った人の、その息子とか娘が中華料理店を経営していることもあるはずで、そんな息子や娘が母親の味として白い麻婆豆腐をメニューにしているお店もあって不思議じゃない。
そう思うと、どこにあるのか知らない中華料理店の、母親の味を食べに行ってみたいなと思うのであります。
どこかにきっとあると思うんだけれどなあ。
どうなんだろうか。

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