折角和歌山大学のイオンシネマまで来たので、折角だから和歌山市まで出てみようと思って家を出た。
凡は小学生の3年ぐらいから中学生の2年ぐらいまで和歌山市に父親の仕事の関係で住んでいた。
南海電車の和歌山市駅から加太線で3駅ぐらい行ったところの中松江という駅だ。
家を出る前にそうミニボンに言ったら、「過去に回帰するんや。」と言った。
その言葉には、やや人を馬鹿にしたニュアンスを含んでいるように思えた。
そりゃ、過去を訪ねるなんて事は、現在を否定する行為であって、後ろ向きなこころの動きだとは思うよ。
でもさ、和歌山にいて3つぐらい電車に乗ると行けるところにいるんだからさ、懐かしさでもって尋ねてもバチは当たらないだろう。
別に昔の彼女を探すというのじゃない。
というか、小学生の頃の記憶なんて曖昧で、その当時のクラスにいた女の子の顔なんて思い出せない。
まあ、兎に角だ。
取り敢えずは、和歌山市に出て、和歌山ラーメンでも食べてからの事にしょう。
和歌山市まで出て改札の前のエスカレーターを降りる。
カラーン。
人がいない。
今日という日は日曜日である。
そして駅前である。
なのに、人がいない。
どうにも切ない気持ちにさせられる。
気を取り直して、駅で和歌山ラーメンのマップを貰って、それを頼りに歩き出した。
和歌山ラーメンといっても2種類または3種類の系統があるようです。
昔からの味はしょうゆ味のサッパリ味はのようだ。
そして全国的に今の和歌山ラーメンの主流となっているのは、比較的新しいそうです。
まずは、そのマップを頼りに駅に近いところに入ってみることにした。
歩いて行くと、「麺屋ひしお」さんがあった。
でも、お昼の営業が終わっていた。
仕方がなく、マップを手に歩き回る。
「山為食堂」も休んでいる。
「伊佐味」さんも休んでいる。
市内をグルグル回るうちに「京橋幸太郎」という看板が見えた。
ここも和歌山ラーメンのお店である。
それにしても、京橋幸太郎とはなんと自分好き好きな名前なんだ。
京橋というのは、食べた後に分かったのだけれど、これは京橋という橋のたもとにあるから京橋ということだった。
でも、幸太郎って、これは人の名前だ。
詰まりは、凡がラーメン屋を始めたとして、お店の名前を「凡蔵。」と名付けるのと同じなのだ。
それは自分大好き人間ではないですか。
そういう意味では凡と同じか。
凡も自分大好きである。
階段を下りていくと、5、6人の客がいた。
壁際の席に座ると、ご主人らしき人が、壁に貼ってある紙を指して、「かなりイケてますよ。」というようなことを言った。
さば寿司だ。
和歌山ラーメンといえば、なれずしを置いている店が多い。
なれずしというのは、さばの寿司なのですが、すこし日にちを置いておくことで発酵したようになっている寿司のことだ。
寿司の原型に近いものなのですが、ラーメン屋に置いてあるのは、早なれという発酵の少ないものがほとんどである。
幸太郎の寿司もそんなものかなと思って、1つ注文。
ラーメンは、幸太郎ラーメンにした。
寿司のオススメといい、幸太郎ラーメンといい、ここでも自分大好きで、こうなってくると、何だか楽しい。
さて、しばらくすると竹の筒を半分に割ったものと、さばを持ってきた。
竹の筒はお皿代わりのようである。
そして、その竹に鯖寿司を置いて薬味と醤油やミリンなどの調味料を混ぜたタレを塗ってくれる。
そして言った。
先日大阪に行ったらしいのですが、大阪の寿司屋の鯖より内のお店の方が美味しいという。
どこまでも、自分大好きなんだな。
ただ、このさば寿司は、なれずしではなく、キズシのにぎりのようなもので、本当に美味しかったので、追加をした。
というか、このさば寿司を5、6個頼んでビールでも飲みたい気分だった。
そして、幸太郎ラーメンは、醤油味が効いているのだけれど、見た目ほど辛くもなく、これもまた美味しかった。
と、自分大好きなお店で、兎に角は和歌山ラーメンを食べたので、いよいよ過去への回帰が始まるのかと思ったら加太線の時間が中途半端なので、少し歩くのだけれど、和歌山ラーメンの名前を全国的に有名にした「井出商店」さんに行ってみることにする。
少しばかり距離はあるけれど歩いていける距離でもある。
店に入ると、ほぼ満席である。
中華そばを注文、そしてなれずしは目の前においてあって自分で取る。
隣に座っている若い男女のグループは、大阪からわざわざ食べに来たようで何だか楽しそうである。
男女の仲のいいグループを見ると羨ましくなる。
恋愛感情抜きに仲良く集まって行動できるということが、兎に角羨ましい。
恋愛感情抜きと書いたのであるけれど、本人達の間では何となく他の人とは違うんだけれどなあなんて気持ちがあるのかもしれないし、それがまた羨ましい。
それに、今どきの若者の屈託のなさが、これまた羨ましい。
隣で話を聞いている中年の凡は、若い男女の何でもが羨ましいのであります。
凡ときたら独りぼっちで和歌山ラーメンだ。
とはいうものの、これだって美味しいラーメンを食べようって言うんだから、幸せなのではあるのであります。
運ばれたラーメンは、豚骨のエキスが麺に絡まって、麺がツルツルの食感になっていて面白い。
更に凡好みの普通の柔らかさのストレート麺であるのもいい。
隣の若者たちは、しきりに美味い美味いを連呼していた。
そんな素直なところも羨ましいのではある。
さて、ラーメン屋のハシゴもしたし、いよいよ過去への回帰である。
南海電車の和歌山市駅まで戻って、加太線に乗り込む。
昔は加太線だったけれども、今は加太さかな線だってさ。
少しばかり気に入らない。
覚えているような、記憶と違うような風景を車窓に見ながら中松江の駅に到着。
駅は昔から変わっていないように思う。
感を頼りに昔住んでいた場所を歩く。
かつてのメインストリートも映画館も無くなって、何となく寂れたというか、小綺麗な住宅の連なりに変わっていた。
昔住んでいたところは公務員の官舎だったのですが、空き地になって草がはえていた。
そういえばこのあたりに同級生の家があったなとか、小学校や中学校
などの記憶を思いながら、ブラブラと歩き回る。
もっとゆっくりと回ると、忘れていたことも思い出すのかもしれないけれど、ラーメンのハシゴで時間を遣ってしまったので、一回りしただけで帰ることにしたのであります。
帰りの南海電車の中で、みゆきさんのことを考える。
みゆきさんは、昔の頃を思い出して、その場所を訪ねたりするのだろうか。
たとえば、帯広とか札幌とか。
たとえば帯広をとってもさ、思い出がいっぱいあると思うんだよね。
お父さんとの楽しかったころの残像が帯広という空間や土地にみゆきさんにしか見えない残像として漂っていると思う。
だから、帰ってみたいなと思う気持ちもあるんじゃないだろうか。
でも、何となくみゆきさんは帰らない気がする。
日々が忙しいというのもあるだろうけれど、帰るのを躊躇っているみゆきさん自身がいるんだと思う。
或いは、今というこの瞬間を大切にしているからなかのか。
或いは、みゆきさんの大切な人たちがいる東京が、故郷よりも愛しいのかもしれない。
大切な思い出、大切だった日々、大切だった人、そんな大切なものは、昔の土地にあるのじゃなくて、みゆきさんの心の中にあるんだろうと思う。
東京に居たって大切な人の優しい波動がみゆきさんのこころに共鳴しているんだと思うのであります。
これは、想像だから、間違ってるのか、どうなのか。
その辺は、ちょっと知りたいね。
って、人のこころの中を知りたいって、本当に凡てゲスであることか。
みゆきさんを好きになって、中島みゆきさん読本なるものを買ったことがある。
その中に、これは記憶だけで書いているのですが、誰かがみゆきさんの過去を訪ねて帯広の中島医院まで行った話が書かれていた。
それを読んで凡も行ってみたいなと思った。
どうにも、ストーカー的ではありますが、行ってみたいと思った。
それはみゆきさんを好きになって、その好きな時間が他の人よりも遅く短いものだから、その穴埋めをするために、みゆきさんの過去を大急ぎで知りたいとという凡の欲求の表れなのかもしれない。
ただ、過去を追えば追うほど、現在のみゆきさんから遠ざかるわけで、それは凡の思いとは反対の結果となってしまうのである。
なので、もう凡自身の過去も、みゆきさんの過去も、追っかけるのはやめようとは思うのであります。
とはいうものの、近くにいったなら、観光のついでなら、いいということにもしておこうと思うのであります。
と、どこまでも弱っちい凡なのでありました。
というか、あることを決めてしまうことが嫌なのであります。
そういえば、みゆきさんも麺類が好きだったな。
和歌山ラーメンは食べたことがあるのかな。
いつか一緒に食べられる時がくればいいのにと思う凡なのでありました。
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