凡は、室生犀星という詩人は、好きか、嫌いか、それは分からない。
それを論ずるほどには、知らないからだ。
以前、金沢に行ったときに室生犀星記念館を訪れたけれども、その内容を覚えていないということは、そこまで興味を持たなかったということだろう。
しかし、次の詩は、何故か印象に残っている。
「小景異情」と題された詩の1番である。
「白魚はさびしや
そのくろき瞳はなんといふ
なんといふしをらしさぞよ
そとにひる餉(げ)をしたたむる
わがよそよそしさと
かなしさと
ききともなやな雀しば啼けり」
ちなみに、2番は、「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの」と始まるのですが、これは誰でも聞いたことがあるだろう。
凡は、食卓にちりめんじゃこが並ぶと、この詩を思い出す。
何十とある小魚の目が凡をみている。
この1匹、1匹(或いは、1尾、1尾というべきなのか)が、かつて生きていた生命なのだ。
彼らは、何のために、この世に生を受け、こうやって、今、凡の目の前に置かれているのだろうか。
彼らの存在理由は何なのか。
そんなことを考えてしまう。
できることならば、彼らは、喜怒哀楽を感じない存在であってほしいと、切に願いながら、凡は、無造作に、そのちりめんじゃこに酢醤油をかけて食べるのである。
否、正確に書くなら、喜怒哀楽を感じない存在であってほしいと願いながら食べていた。
と、過去形で書くのが正解だ。
最近の凡は、目の前に置かれた、かつて生きていたものを、そこまでの罪悪感というか、感情を持たずに食べているのである。
牛だって、豚だって、鶏だって、魚だって、その生き生きと生活をして、ファミリーで仲良く暮らしていたことなんて、想像もせずに食っている。
牛や、鶏が、殺される瞬間の恐怖なんて、無かったことのように振る舞って、それは無意識のうちにしていることなのだろうけれど、食っているのだ。
ときに、凡は、これまで、一体、何羽のニワトリを間接的に殺してきたんだろうと思う。
考えてみれば、恐ろしい数を殺しているよね。
なんせ、鶏の唐揚大好きだもの。
よく冷えたビールに唐揚げは、最高だ。
本当なら、数え切れないほどの動物の悲鳴を感じなきゃいけないはずなのに、未だ聞いたことがない。
これを仏教的に解釈するなら、毎日毎日、凡は、悪業を積んでいるということになるのだろう。
鶏1羽を殺した罪は、どのぐらいの徳でもって、償わなきゃいけないのだろうか。
これを考えるとき、凡は、その解決法を、ある時に、見つけたのだ。
そうだ、クリスチャンになろうと。
もちろん、洗礼を受けてはいない。
ただ、食事をする前にだけ、似非クリスチャンになる。
よく海外のテレビドラマや映画で、食事の前にお祈りをするよね。
あれだ。
目の前に置かれた牛や鶏は、人間が食べるために神様がご用意してくださったものだと。
なので、凡は、何の罪悪感もなく、それらを食べてよいのだと。
だって、そうでも考えなきゃ、気がおかしくなっちゃうよね。
ここで、少しばかり脱線してしまうけれど、これを書いておきたい。
ある人は、動物をたべることに対して、食べなきゃ生きていけないじゃなというかもしれない。
でも、それは間違いだ。
菜食主義者という人がいることは知っていますよね。
彼らは、動物を食べなくても、ちゃんと生命を維持している。
なので、人間は、動物を食べないと死んでしまうから食べるというのは、間違いである。
では、何故、食べているかというと、美味しいからだ。
人間は、ただ、美味しいからという理由で、動物を殺して、食っているのだ。
極めてエゴな理由であり行動だ。
なので、これに関して、さらに言うなら。
よく、食事の前に、特に、肉料理などを食べるときに、私達は、生命を頂いているのですから、感謝して食べなきゃいけません。
なんて、善人ぶったことをいう人がいるけれども、凡は、それを聞くと吐き気がする。
そして、その人に言いたい。
勝手に殺しておいて、感謝はないだろうと。
そして、どのぐらい感謝すれば、牛を殺した罪、鶏を殺した罪は、帳消しになるのですかと。
感謝する前に、殺すなと、そして、食べるなと言いたい。
でも、凡は食べますよ。
美味しいから。
しかも、食べるときに食材に感謝なんてしない。
間接的にだけど、殺してるんだからね。
感謝したからといって、殺したことが帳消しにはならないからさ。
詰まりは、このことに関して言うなら感謝することは、無意味だ。
というか、それで帳消しになったなんて、そう思うことは、卑怯だと思う。
なので、正解は、こうなんだ。
この牛や鶏は、神様がご用意してくださったもので、罪悪感なんて持つ必要はないし、凡は、これを美味しいという理由で食べますと。
なので、「美味いなあ。これ実に、美味いなあ。」と大喜びて食べるのが正解だと、凡は思う。
これに関連してることだけど、子供が「いただきます。」なんて、食事の前に手を合わせる。
或いは、手を合わせることを教えられる。
この理由として、生命を頂いているという理由を、偽善者はつけたがるが、あの習慣というか、行為は、どうなんだろうね。
凡は、どっちでも良いと思う。
というか、命をいただくから、いただきますという理由なら、即刻、廃止するべきだ。
だって、いただきますと、ちょこんと、数秒手を合わせることが、生命をいただくに相当する感謝だとは思えないからだ。
ただ、子供が、手を合わす姿は、可愛いよね。
見ていて、微笑ましい。
なので、残しておきたい気持ちは、大いにある。
凡も、食事をするときは、必ず、いただきますと言ってから食べる。
でも、それは、作ってくれた人への感謝だ。
特に、凡なんて、どうだ。
こんな愚で凡な人間に、食事を無償で作ってあげようなんて気持ちを持っている人は、ミニボンと母親しかいない。
なので、そこは素直に、心から、ありがとう、いただきますと感謝できるのである。
ただ、願わくば、ミニボンと母親以外にも、若くて可愛いミニスカートのサラサラロングへーのエクボの似合う女の子が、無償で凡に食事を作ってくれるなんてことにならないだろうかなという、そんな夢は捨ててはいないのでありまして、ただ、その夢は、叶わないまま、凡は死んでいくのだろうなとも、最近は、気づき始めている。
なんてことを、ぐだぐだと書いてきましたが、どちかかというと、ここまではプロローグ。
本題は、これからなのでございます。

食事には、というか、食材には、動物と植物があるが、それ以外にも、微妙なものがある。
範疇としては、動物になるのだろうけれど、貝である。
貝は、動物であるけれども、目や手足が無いので、そこまで、動物っぽくない。
なので、動物だけど、食べても罪悪感がないのだ。
その貝の中でも、しじみは、どうだ。
食事としてテーブルに乗る場合は、しじみは、味噌汁として上ることが多いだろう。
あのしじみって、小さいよね。
なので、身も小さい。
凡は、しじみの味噌汁のしじみは、あれは具だと思っていた。
なので、食べるのが正解だと。
というか、子供の頃から、親もそうやって、しじみの味噌汁の身は食べていた。
前歯で、身をこそげて、お椀に入ったしじみ全部の身を食べていた。
残すなんて、考えることすらしなかった。
理由は、それは身だからということになるのだろう。
子供の頃から、親がそうしていたので、何の疑問も持たなかった。
味噌汁を飲み終わるころには、お椀の横には、身をこそげた貝殻が積み上げられている。
それが、10年ぐらい前まで、凡の日常というか常識だった。
しかし、ミニボンと結婚して、しばらくしてから、ミニボンが疑問を呈したのである。
しじみの身は、だしを取るためのものじゃないのかと。
こんなことを言うミニボンは、しじみの味噌汁は飲まない。
というか、貝も食べないし、かなりの偏食なので、食べるものは極端に少ない。
なので、説得力は無いのだけど、その疑問について、凡は考え込んでしまった。
そういえば、身と言っても、味噌汁に旨味が溶け込んでしまっているので、しじみの身を食べたところで、そこまで、旨味を感じない。
とはいうものの、勿体ないじゃないかとも思う。
それに、旨味だって、ゼロでは無い訳で。
実に悩ましい問題だ。
もちろん、これが、アサリの味噌汁なら、間違いなく、身は食べる。
しじみは、身が小さいから悩むのである。
詰まりは、面倒くさい。
そんなこんなで、年月が経って、現在の凡は、しじみの味噌汁のしじみの身は、全部は食べなくなってしまった。
3分の1ぐらい食べたら、あとは、汁だけ吸って、残りのしじみは、身を食べずに捨ててしまう。
理由は、面倒くさいということだ。
しかし、これで良いのだろうかと、まだ、自問している凡も、少しだけいる。
このままいくと、最終的に、しじみの身は食べない凡になってしまうだろう。
しじみの身を食べた方が良い理由。
しじみの身を食べなくても良い理由。
誰か、明確な答えを示してはくれないだろうかと思うのである。
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