目の前に、1冊の本がある。
「終わりなき対話ーやさしさを教えて欲しいー」である。
谷川俊太郎さんと、中島みゆきさんの対談本が発売された。(朝日出版社)

発売されると知った時、買おうか、どうしようかと悩んだ。
でも、買うと、みゆきさんに、ほんの少しの金額だろうけれど、幾ばくかのお金が、チャリンと入ることだろうし、みゆきさんが、本を出そうと思ったのか、スタッフに言われてオッケーを出したのかは知らないが、兎に角、出版をしたのだから、買うという行為には、凡的には、意味を見付けることが出来る。
なので、アマゾンで、ポチリとやって取り寄せたのである。
ただ、その本を読みたいかどうかは、また、別の問題である。
なので、その本を目の前にして、悩んでいるのだ。
本を目の前にして、ジッと見つめている。
そこに本はあるのだ。
その本の端っこを、ちょんと突いてみる。
シュッという軽い音をさせて、9ミリほど、向こうへ移動した。
そして、天井を見上げて、ひとつため息をつく。
読もうか、どうしようか。
みゆきさんが、ひとりで書いたものならね、迷わずに読むだろう。
でも、これは対談なのである。
対談には、相手がいる訳だ。
その相手が、凡は、大嫌いな人であることが問題なのである。
谷川俊太郎さん。
凡は、谷川俊太郎さんについては、あまり知らないので、知らないのに大嫌いだというのは、あまりにも失礼かもしれない。
まあ、その嫌いの中には、ほんの少し、ほんの少しだよ、嫉妬心が含まれている。
だって、谷川さんは、男性だものね。
でも、嫌いだっていう理由は、昔、谷川俊太郎さんのある詩を読んだからだ。
詩というものは、創作物であるのだけれど、その内容が、それを作った人の考え方だと、これをイコールとするのは、間違っているだろう。
右だと思っている人が、左だという詩を書いても良い。
花を愛する人が、その花を引っこ抜いて、足で踏みつける詩を書いても、それは1つの創作物なのであるからして、全く持って、問題は無いのである。
ただ、それは、読む人が、物事を自分で考えられる年になっている事が前提の話だ。
まだ、頭もこころも真っ白な子供には、それを読ませるには、慎重にならなきゃいけないと思う。
谷川俊太郎さんの詩に、「しんでくれた」というのがある。
子供向けに書かれたものだ。
読んだ瞬間、気持ち悪くて、吐きそうになった。
詩なんだから、これは、谷川俊太郎さんの考えじゃないかもしれないが、これを、子供に読ませるべきじゃないと思ったのだ。
この辺の理由については、かなり前に書きました。
もし、よろしければ、そちらもお付き合いくださいましたら、うれしいです。(そのブログは、こちら。)
ということで、もう、今は、谷川さんも、亡くなられたので、批判というか、悪口は、書かないでおこうと思う。
まだ、亡くなって、そんなに年数も経ってないからね。
批判は、生きている人にしなきゃ、イケマセン。
ということで、凡の嫌いな谷川俊太郎さんとの対話集である。
読むべきか、読まざるべきか。
親指で、2カ所、3カ所ぐらい、本を開いてみる。
あ、これは、みゆきさんの歌詞だな。
凡は、みゆきさんの歌の歌詞は、覚えてはいないし、CDに付いている歌詞を読んだことも無い。
でも、細く開かれた本の隙間から見えるみゆきさんの歌詞の文字の1つひとつが、何とも愛おしい。
ほんの一瞬、網膜に映った詩の断片、いや、1つの活字になった文字さえも、頬ずりしたくなるように愛おしいのである。
そして、また、本を閉じて、腕組みをする。
そもそも、凡は、対談本もそうだけど、みゆきさんについて書かれた本や雑誌、また、過去のものなどは、読まないようにしている。
だって、好きな人のことを、知らない人が、あーだこーだ言うのを読むのって、寂しくないのだろうか、苦しくないのだろうか、悔しくないのだろうか。
なので、買いはしたけれども、手も付けていない本や雑誌も多い。
CDだって、「お時間拝借」という昔のラジオ番組を録音したものが発売されたけど、まだ、セロハンの封も切っていない。
聴きたいきもするけど、それって、過去のみゆきさんだものね。
凡が、みゆきさんを、まだ知らなかった時期のみゆきさんだ。
過去を知って、どうなるものか。
凡は、今のみゆきさんが大好きだし、今のみゆきさんに会いたいのである。
今回発売されたのは、過去の対談だけど、今回用に手直しされた部分もある。
それなら、読んでもいいかなと思うのではあるのだ。
いっそ、本の対話の中の、みゆきさんが喋った部分だけを、読んでみようかと思う。
ただ、みゆきさんが喋った部分と言うのは、谷川さんへの問いかけであったり、谷川さんについてのことだろう。
別に、谷川さんは、どうだっていいんだ。
それなら、みゆきさんへの問いかけや、みゆきさんについて書かれている谷川さんの部分だけ読もうかとなると、余計に嫌である。
ただ、このあたりの葛藤は、先に書いた、谷川さんの詩が嫌いだという理由とは、すこしばかり違っていて、まあいうなら、モテない凡が、単に、谷川さんに嫉妬しているだけなのだ。
でも、みゆきさんは、谷川さんの詩のどこが好きなんだろうね。
みゆきさんの卒論が、谷川さんを題材にしていると聞くのだけれど、そんなにみゆきさんにとって、魅力的なんだろうかね。
或いは、みゆきさんは、谷川さんを、男性として好きなのだろうか。
そうなら、最悪だ。
でも、仕方がない。
凡は、いつだって、愚で凡で、モテないのでありますから。
そんなことを悩みつつも、その本を手に取ると、読み始めてしまった。
凡は、恐ろしく遅読なのですが、これは短時間で読めました。
まあ、対談だからね。
内容については、どうということは無かったか。
というか、ふたり、あまり嚙み合ってないような印象に思えたけど、どうだろう。
話すにつれて、どんどんと、面白い展開になっていくというより、ぽつりぽつりと、細切れみたいな感じ。
なので、読んでみると、意外と、嫉妬心は起きなかったね。
途中、相手に対して、33の質問というコーナーがあるんだけど、これ、大阪人が読んだら、33回、吉本新喜劇みたいに、ずっこけてしまうんじゃないだろうか。
これは、記者の方が質問の原稿を持って行って、紙ベースで返答されたものだろうか、それとも、お互いに、対話の中で、質問しあって、口頭で答えたものだろうか。
どちらにしても、質問があって、それに答えるのだけれど、答えが、一言で終わってしまってるんですね。
読んでいると、そのたびに、コテンとひっくり返ってしまいそうだ。
例えば、みゆきさんが、谷川さんに、「惚れっぽいですか?」と質問してるんですけど、それについての返事が、「いいえ。」なんです。
、、、、コテン。(凡が、転ぶ音)
いやいやいや、その一言で、よく終われるね。
普通なら、「いいえ、全く持って惚れっぽくないですよ。あれ?あれ?なんだろう、今ね、この小さなお胸が、ドキドキしてるんですよね。みゆきさんを見ていると、なんかさ、この人を、ずっと見てたいなあとか、そんなこと思っちゃってるんですよね。どーしちゃったんだろ。というかさ、この人を、大切にしたいなあなんて、今、思っちゃってるんです。んでもって、このあと、お酒とか飲みに行きたいなとか、あんなことや、こんなこと、いやだあ。というかね、ほんと、全然、惚れっぽくないんですよ。ほんとの話。高校時代だって、ラブレターっていっても、100人ぐらいにしか書いてないし。それって、普通よね。惚れっぽいとか、全然、分かんなーい。」とか、そんな答えになりはしないのだろうか。
あの質問と、答えは、すごいなと思いましたね。
ただ、谷川さんの質問の、「もし人を殺すとしたら、どんな手段を択びますか?」というのに対して、みゆきさんが、「茄子の呪い揚げ。」と答えた部分は、笑ってしまいました。
あれは、いいね。
ということで、意外にも、最後まで、読んでしまいました。
そして、もう1つの感想を書かなきゃいけません。
本に付いている帯である。
帯には、みゆきさんと、谷川さんの写真が載っている。
誰なんだ。
誰が、あのみゆきさんの写真をチョイスしたんだということだ。
写真が可愛いかどうかの前に、あれ、どー見ても、みゆきさんに見えないし。
ただここで、もし、みゆきさんのチョイスなら、みゆきさんが、あ、これ可愛いからって、この写真を載せたんなら、それはそれでいい。
ただ、みゆきさんの女心を想像すると、涙がひとすじこぼれるかもしれない。
もし、スタッフさんなら言いたい。
もっと、素敵で、可愛い写真があるでしょ。
この前のコンサートの写真なんて、みんな大好きなんだよ。
メガネの可愛いみゆきさんを載せてよ。ということで、なんだかんだ言いながらも、本を読んでしまった凡なのでありました。
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