中島みゆきさんのブルーレイ(DVD)が、やっと発売されましたね。
凡のところにも、ヤマハさんから届きました。
段ボールの箱を開けると、ブルーレイとCD、そして、特典のオマケ。
いや、このオマケ、なかなか、可愛い。

コンサート歌会Vol.1の豆本と、CDケースのキーホルダー、ストラップ付のパスケース。
昔むかし、学生時代にも、それ以前からもあったのだけれど、豆本って、古本屋なんかに行くと、必ず、洋酒天国の豆本とかさ、片隅に置いてあったんだよね。
ちっちゃなものって、ミニチュアのウイスキーなんかももそうだけど、可愛いんだよね。
そんな可愛い豆本に、これまた、可愛いみゆきさんが印刷されてるんだもの、可愛いの極地である。
それにしても、こんだけ小さな字、よく印刷できたものだ。
うっとりと、それぞれのオマケのみゆきさんを眺めて、引き出しにしまった。
さて、実際に、これを使用するときは、いつなんだろうね。
ブルーレイは、その日のうちに、見たのだけれど、何しろ、いつものことで、酔っぱらっていたので、映像としては、うっとりとさせてもらったのだが、翌日は、その記憶は無かった。
とはいうものの、映画と同じなので、何回も見た映像だし、これから、何回も見ることが出来るから、どうということはない。
んでもって、特典で付いているメイキングは、その日は見ずに、そのまま日が過ぎていた。
そして、先日、見たのであるけれども、凡は、映画の特典映像と同じだろうと、勝手に決めていたから、それほど急いで見なかったのだが、これ、全く違う映像だったんでね。
時間的にも、長いものであるので、かなりの満足感なのだが、しかし、しかしである。
どうして、またモノクロなのか。
どうして、天然色じゃないのかということだ。
これから発する言葉は、もし、このメイキング映像をモノクロにしようと考えたのが、みゆきさん本人だったら、これ以後の言葉のすべてを、この場で、取り消します。
まあ、みゆきさんのしたいことなら、なんでもオッケーという凡なのであります。
でも、カメラマンや、映像スタッフさんだったなら、これは、言わせてほしいのだが、モノクロにするのは、プロとしての矜持の放棄であり、怠惰であり、みゆきさんを美しくみせようとする愛の不足である。
モノクロっていうのは、非常に魅力のある世界なのは、凡も、大好きなので、よく解っている。
学生時代は、よく映画を見に行ったのだけれど、勿論、その時代でも、ほとんどが天然色だ。
でも、リバイバルで、黒沢監督の映画なども、街の映画館で上演されてりして、或いは、ヨーロッパ映画なんかも上演されていたか、それらは、モノクロだった。
そんな映画を見ると、余分な情報が無い分、ストーリーや、その映画の世界に入り込んでいく感覚になる。
というか、そんなことよりも、理屈抜きで、あのモノクロの世界は、どうにもハマってしまう何かがある。
凡も、学生時代は、カメラで、モノクロ写真を撮ったりしていた。
お金が無かったから、勿論、ニコンや、キャノンなんて、買えない。
ライカや、ローライなんて、論外。
そんな時、リコーから、確か、サンキュッパ(朧げな記憶)とかで、一眼レフが売り出された。
それを買って、というか、それでも、凡にしては、かなりの高級品。
それをもって、街に出かけたのを思い出す。
そして、やっぱり、モノクロのフィルムを、装填してしまう。
さらに、白黒のコントラストを強調するフィルターを、レンズに付けたりしてしまうのだ。
凡も、モノクロの世界に、魅了されていたのだろう。
そんな時だ、友達の部屋を撮ったのだけれど、ゴチャゴチャとした部屋に友達は座っていたのだが、その場面を現像してもらったら、どうにも、残念な気持ちになったのである。
その時は、カラーフィルムを使っていた。
写真を見ると、部屋も友達も、地味な色合いの世界に、違和感の半端無い青いバケツが光っていたのだ。
普段は、まったく気にならない、その青いバケツが、写真に撮られた瞬間、とんでもない存在感を、その写真の絵に出現させてしまう。
原色の強烈なパワー。
その青は、写真に撮られたものだから、現実の青に違いないのだが、周りの風景や色合いなどを全く無視して、まるで、そのバケツが主役のように写っていたのだ。
これは、一例だが、街で写真を撮ると、かならず、この現象が起こる。
とはいうものの、凡は、カラー写真を加工したりするのは、好きじゃない。
昔は、ちょっと職人気質のある街の写真屋さんなら、店主が、現像の時に、光の強弱などを調整して、というか、修正して、現像してくれた。
あれは、良い。
職人技として、より良いものにしてくれる技術だから。
でも、今の時代は、写真もデジタルだ。
加工は、いともたやすく出来てしまう。
さっきの青いバケツも、今なら、加工して、まわりの風景に溶け込ませることも出来るだろう。
場合によっては、背景を別の物にしたり、びっくりするようなものに仕上がるに違いない。
まあ、それを始めに宣言して、そうするなら、それも一つの作品ではある。
でも、凡は、技術と、タイミングでもって、撮られた1枚の素の写真が好きだ。
そこには、その瞬間、その空間を切り取った、その瞬間、その空間の事実が写し出されているから。
始めの話に戻るけど、みゆきさんのメイキングの話だ。
メイキングなので、そこに加工は無い。
その瞬間、その空間を切り取ったものが、映像としてある。
なので、そこには、活き活きとしたみゆきさんが映っているわけだ。
でも、本当に事実を、その瞬間の本当を伝えたいなら、カラーにすべきである。
みゆきさんの美しさを伝えたいなら、どうして、カラーにしようとは思わなかったのか。
この文章の途中で、モノクロ映画は、「余分な情報が無い分」と書いたけれども、みゆきさんの、そして、メンバーの事実を記録して伝えるなら、カラー映像にして、たとえ、青いバケツのように、違和感のある映像になってしまっても、余分な情報が増えて、作品として意図しないものになっても、そこは、事実を伝えるということに、すべてを賭けるべきである。
それには、カラーが必要なのである。
現実の世界は、天然色なのだから。
簡単に言うと、現実のみゆきさんを見たいのである。
みゆきさんの、滑らかな肌の白さ、唇のドキリとするような湿った感触、瞳の光の反射、そんな美しさは、やっぱり、カラーじゃなきゃさ、寂しいじゃないのさ。
、、、と、いろいろ書きましたが、詰まりは、天然色のみゆきさんが見たいということなのでありまして、それを、ぐだぐだ書いただけなのではあります。
どうしても、モノクロにしたいなら、みゆきさんだけ、カラーにして、他のスタッフや背景は、モノクロにするとかさ。
今の技術なら、それぐらい出来るよね。
まあ、スタッフの方には、失礼な事を書きましたが、だって、凡以外にも、カラーで見たいと思っている人は、多いのじゃないかと思うんだけどな。
まあ、なんだ、かんだと書きましたが、メイキングのみゆきさんは、たとえ、白黒の世界でも、それは、美しく、美しく、美しく。
そして、可愛いのでありました。
ということで、その話は、置いておいて、今回と言うか、映画を見ていた時に気になったことを、続けて、書いてしまおうかな。
歌会のブルーレイの本体の方の映像だ。
やっぱり、カラーの映像は、最高だね。
そして、途中、「LADY JANE」のところで、亡くなられた小林信吾さんの残ってたピアノの音源を使用して、歌う場面がある。
その説明をするときに、みゆきさんは、「わしらの(儂らの)」という言葉を遣った。
この言葉なんだけど、みゆきさんは、ときどき、使うように思うのだが、実際は、どの程度の頻度なのかは不明だ。
不明だけど、何度も、耳にしている。
これ、いつも聞くたび、こんな言い方はして欲しくないんだけどなあと思ってしまう。
みゆきさんが好きなのに、こんなことを書くと、怒られるだろうか。
この「わし(ら)」という言葉は、「わたし」から変化した言葉で、江戸時代とかでは、女性も使ったそうだが、凡の感覚としては、年配のおっちゃん、若しくは、おじいちゃんが使う言葉で、女性が使うには、あまり、似合っていない言葉に思えるのだ。
テレビを見ていると、自分のことを、「僕」という若い女の子が出ていた。
例えば、この子が、自分のことを「わし」と言っても、それは、若さゆえ、そして、可愛さゆえに、まあ、気にならないかもしれない。
でも、ある程度の年齢になったら、女性が使うには、ちと、違うなと感じてしまうのだが、その説明ができない。
みゆきさんが、「わし」を使うのは、照れくささもあるのか、その場の雰囲気を和らげる意味もあるのか、誰かの真似をしているのか(それは、ちと嫌だけど)、その理由を知りたいな。
出来るならさ、そりゃ、みゆきんさんに合うことも出来ない凡が言うのもなんだけど、普通に言った方が、素直に聞ける。
詰まり、「わたし(たち)」と。
それか、「あたし(たち)」か。
少し柔らかく、砕けた感じで言うなら、「うち(ら)」とか、可愛いんじゃないかと思う。
急に身内感がでるじゃない。
信吾さんが身内に感じている気持が伝わってきて、温かみのある表現になる気がする。
というかね、みゆきさんに、「うち」って言葉を言われたら、もう、メロメロになっちゃうかもね。
「なあ、凡ちゃん。うち、、、あ、もう、嫌やん。うん、でも、言っちゃう。うちな、凡ちゃんのそばに、ずっと、、、いややん、うち、恥ずかしいわ。」なんてね。
そんなこと、みゆきさんに言われたら、漏らしちゃうだろう。
おしっこも、ウンコさんも。
、、、いや、そんな自慢げに言う話じゃないか。
大阪では、若い女の子でも、「うち」は、よく使ってるよね。
あれは、いいと思う。
可愛いよね。
小さな子供が、例えば、小学生2年生ぐらいの女の子が、「ママ、うち、お腹空いた。」とか、そんな風景を想像しても可愛いぞ。
でも、「うち」に似た言葉で、「わて」とか「あて」という言葉があるが、あれは使って欲しくないな。
みゆきさんが、コンサートで言うんだ。
「わてらの、バンマスが、、、。」
大阪でのコンサートなら、全員が、「あんた、芦屋雁之助か。」とツッコミが入るかも。
というか、若い人は、分からないか。
まあ、今、「わて」も「あて」も使う人は、そんなにはいないだろうな。
と、ここまで書いてきたときに、ネットで、ふと、北海道弁というのを見つけてしまう。
それを見ると、北海道弁で、「わたし」という言葉は、「わ」「わし」「おら」「わっち」と言うとあった。
北海道も広いからね、その地方で、さらに、方言として、いろいろな言い方があるのだろうけれど、このネットの情報の中に、「わし」があるではないですか。
ひょっとして、あの「わし」と言っていたのは、北海道の方言だったのだろうか。
考えても分からないので、考えるのは、よそう。
ということで、今日もまた、ぐだぐだなお話になってしまいましたが、最後までお付き合いくださいまして、ありがとう。
明日もあるので、「わしは、寝ます。」、、、凡が言っても、雰囲気出ないですね。
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