平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(1370)ライブ・ヒストリー 2 を見て、寂しくなってしまった凡。

アイラブユーみゆきさーん

今回は、みゆきさんの映画について書いてみたのだけれど、ただ、ウダウダと独り言を言っているようなものでありまして、読むに意味のないものかもしれません。

お時間の、ありあまっている時にでも、お付き合いいただければ、うれしいです。

昨年の末から、みゆきさん関係のニュースが、いくつか発表されて、みゆきさんロスのロンリーハートの凡にとっては、少しだけ気持ちがホッコリとする瞬間もあった。

シングルCD「俱に」(ともに)の発売を聞いて、テレビドラマも、そりゃ、見ちゃいますよね。

最後に流れる歌を聴きたくてね。

でも、ドラマも素敵でした。

それにしても、「俱に」というタイトル。

ふりがなもつけて、旧字体だと但し書きも付けて、ああ、みゆきさん好きだなあと思わずニヤリとしてしまいました。

どうしても、この字にしたかったのね。

とまあ、そんなことは、どうでもいいか。

みゆきさんがしたいようにしてるのが、それを見てるのが楽しいような気がする。

さて、昨年の末の12月30日から公開されている映画「中島みゆき 劇場版 ライブ・ヒストリー 2」を見てきました。

なんばパークスシネマで、コロナ明けの6日の金曜日と、そして、12日の木曜日。

その内容については、もうDVDなどで見たことのある映像ばかりだけれど、あの大きなスクリーンで見るみゆきさんは、また別格に美しいんだよね。

どっちの回も、20人から25人ぐらいだったかな。

凡は、2回とも最前列に席を取った。

これで、みゆきさんを独り占めという訳だ。

まず、最初に映ったのは、ロサンゼルスでのライブ映像。

1曲目は、「銀の龍の背に乗って」。

いきなり、みゆきさんの二の腕のアップから始まる。

いやあ、そのねえ、もうその時点で、ウットリしちゃうじゃない。

あの白さと、そして、あの柔らかな感じ。

女性と言う存在の、その女性らしい部分が、あの二の腕のアップで、もうすべて表現されている。

もし、凡の目の前に、宇宙人がやってきて、、女性とは、どういうものなのですかと質問をされたら、みゆきさんの二の腕の映像を見せるだろう。

これが、女性という存在なんですよと。

ただ、それだけでいい。

「〇%▽#♪&□、、、。」

宇宙人も、訳の分からない言葉で、何か納得して帰っていくだろう。

「女性ってのは、なかなか、エロいものですなあ。ぐふふ。実に、その、エエもんですなあ。」

なんて、宇宙人の言葉を翻訳すると言っているのかもしれないが、まあ、みゆきさんの二の腕の虜になっていることには、これは間違いがないだろう。

凡は、最高の美しさを持った二の腕を、幾分かイヤラシイ気持ちでもって凝視している。

ああ、あの二の腕を、この凡が、どうにか出来る可能性はないものだろうか。

そして、もし触れることの叶う近さまでくることができたなら、どうするのだろうか。

みゆきさんの白き二の腕に、頬ずりをして、そして口づけをするかもしれない。

でも、口づけをしながら寂しさを感じているのかもしれないのではある。

みゆきさんの滑らかな皮膚を感じながら、そこに唇を触れる行為は、凡の脳みそを沸騰させるぐらいに刺激的であるだろう。

でも、その二の腕の持ち主である、みゆきさんは、どうだ。

凡という人間の存在を認識することもなく、ただ、気持ち悪い男が二の腕に、チュッチュッ、チュッチュとキッスをして、ただひとり興奮している異常な状態なのである。

そこに、みゆきさんの凡に対する好意的な感情はない。

ああ、悲しき現実。

触れることのできる近さなのだけれど、こころ通わぬ状態。

そして、遠く離れていても、こころ通う関係。

近くにいるのに、こころ通わぬ状態ほど、悲しいものはないよね。

それは、孤独にも近いものがある。

たとえ、遠く離れていても、お互いにお互いを思いやる。

寂しいけれど、これが愛というものだろう。

じゃ、凡は、遠く離れていても、こころ通う関係を望むのかというと、変態の凡は、結局は、こころ通わぬ状態でも、傍にいられる状態を選んでしまうのだろうな。

凡の欲望のままに、みゆきさんの二の腕にむしゃぶりつく。

んでもって、頬ずりして、口づけをして、舐めて、しゃぶって、興奮のあまり、かじりついて、その温かな赤い血を啜って、骨をかみ砕いている。

それでも、凡は満足しないだろう。

その寂しさに、嗚咽して、みゆきさんを見上げる。

すると、そこに冷ややかな目で凡を見下げるみゆきさんがいる。

ただ、氷のように冷たい目で見ている。

その網膜には凡の姿は写っているのだが、みゆきさんの脳みそに凡が投影されることはない。

ああ、孤独だ。

と、しょっぱなから、みゆきさんの二の腕をみて興奮状態なのであります。

それにしても、大きなスクリーンで見るみゆきさんは、美しい。

そして、歌が始まると、みゆきさんが、腕を上にあげる。

そこに、白い脇の下があった。

ああ、みゆきさんの脇の下、、、、、!

何と、美しいことであるか。

と、これまた、みゆきさんの二の腕と同じパターンになってしまうので、ここは割愛。

女性の脇の下を、こうもジロジロと見つめる機会が、果たして、人生の中で何回あるだろうか。

脇の下って、スコブルにデリケート部分である。

しかも女性の脇の下なんて、これは、普通なら見てはいけないところだろう。

でも、凡は、今、みゆきさんの脇の下をジロジロと、これまた凝視している。

ある意味、至福であるが、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

これは、何回か書いたことがあるかもしれないが、女性をジロジロとみる行為と言うのは、果たして、やっていい行為なのだろうか。

コンサートで、凡は、双眼鏡でもって、みゆきさんを見る。

だって、みゆきさんの可愛い顔を見たいものね。

でも、一方的に、双眼鏡でもって、女性の顔を見るという行為は、やってはいけない行為なんじゃないだろうかと、コンサートに行く度に、考えてしまう。

普通に考えたら、それはするべきじゃないだろう。

でも、見てしまうんだな。

だって、みゆきさんが見たいんだもん。

この欲望には勝てないのである。

そこは、ゴメンナサイである。

でも、映画は、これは、見せるために公開しているんだからね、まあ、見ても良いだろうと凡の理屈を納得させるために、そう解釈して見ているのだ。

それにしても、こんな大きなスクリーンに映し出してさえ、これだけ美しいということは、これは奇蹟に近いよ。

等身大に映し出して、そして、それが美しいというのなら、理解できる。

でも、これだけ拡大しても、なを、美しいんだよね。

顔の写真を、大きく引き伸ばして映したなら、誰だって、そのアラみたいなところが強調されてしまう。

でも、みゆきさんは、違うんだよね。

たとえ、大きく引き伸ばしても、美しい。

いや、これね、普通に映画館のシートに座って見ているけれどもさ、みんなの知っている人の顔を思い浮かべてさ、それは、知り合いでも良いし、或いは、芸能人でもいい、その顔を、ここまで大きく引き伸ばして、スクリーンに映し出したところを想像して欲しい。

それは、きっと、見るに堪えない映像になるはずだ。

この凡の顔を、このスクリーンに、大きく映し出す。

きっと、見ている人は、気持ち悪くなってしまうだろう。

でも、みゆきさんは、これだけ引き伸ばしても、いや、さらに美しく見えるんだよね。

これって、すごいことだよね。

そんなこんなで、みゆきさんをジロジロと見つめながら、映画は進んで行った。

最高の、時間である。

ロサンゼルスの映像と、歌旅の映像は、凡がみゆきさんを大好きになる前のものだ。

スコブル美しいが、同じ時間を共有しては見ていない。

でも、縁会、一会は、コンサートにも行ったし、この映画に映っている瞬間を、実際に、同じ時間で見ていたんだよね。

なので、映画の映像も、ひとしおジーンとくるものがある。

とはいうものの、ロサンゼルスの映像や、歌旅の映像を見るたびに思うのだけれど、女性と言うものが、美しく輝いて見えるのは、たぶん、この年代ぐらいが最高なんじゃないかなということだ。

40才代、50才代、そのあたりが、女性の本当に美しい部分が、全体に出てくる時期なんじゃないかと思う。

まあ、これは、若い時のみゆきさんを知らないから言えることで、もし、凡が、20才代のみゆきさんを見たら、腰を抜かすぐらいに、その可愛さにウットリしていたのかもしれない。

まあ、昔の映像を見ると、それは、容易に想像はつくのだけれど、それを同じ時間で見ていないからね。

もし、知っていたら、エライコトになっていただろうから、知らないで幸せだったのかもしれないが。

それなら、50才代のみゆきさんが、1番好きなのかというと、そうでもない。

60才代のみゆきさんの方が好きだ。

というのも、凡が大好きになってからのみゆきさんだからだ。

そう言う意味では、今回の映画でも、1番最後のラストツアーのみゆきさんが、1番好きだと言えるかもしれない。

見ていて、ああ、美しいなと思う。

そして、どうにも愛おしい。

それにしても、誰もが思ったことだろうけれど、あの最後のラストツアーの映像は、やられたよね。

「誕生」という歌の選択もそうだけれど、途中で挿入されるメイキングの映像。

あれは、ダメだ。

しかも、メイキングも、カラーだったよね。

そして、誕生を歌うオスカル的な服に、その他の、フェミニンな衣装も映し出されたりして、すごく、素敵だった。

そして、思った。

その時、その時のみゆきさんが最高だと。

縁会の時も、最高に美しかったし、一会の時も、最高に可愛かったし、ラストツアーの時も、どうしようもなく愛しい。

今のみゆきさんが、最高だという事だ。

そして、これからも、また、その時のみゆきさんを、大好きになっていくんだろうなと思う。

映画を見終わって、ため息をひとつ。

みゆきさんロスが寂しくて、そして、みゆきさんに会いたくて、映画を見に行ったけれども、映画を見て、余計に、みゆきさんが恋しくなってしまった。

ああ、会いたいです。

、、、、、そして、二の腕にしゃぶりつきたい。

と、これは余分か。

、、、、、と、こんな独り言を書いてアップしようかと思ったのですが、ちょうどまた、休みがあったので、そのアップの前に、今日17日(火曜日)に、大日のイオンシネマに行ってきましたので、その部分を追記。

9時15分上演の回に行ってみると、凡以外に、ひとり後ろの方に座っている方がいた。

凡は、最前列だ。

そして、上演が始まる。

それにしても、最近、尾籠な話で申し訳ないが、トイレに行っても残尿感があるんだよね。

今回も、上演前にトイレに行ったにもかかわらず、映画の途中で、トイレに行ってしまった。

ああ、悲しき哉、加齢のなせるわざ。

いや、この場合、膀胱炎なのかもではある。

まあ、そんな事は置いておいて、「一会」の「Why & No」は、あの選局をしたのは、きっと、男性だよね。

みゆきさんの歌は、どれも、素晴らしいもので、その中から、映画にする曲を選べなんてことは、相当に頭を悩ます作業になるに違いない。

最高の並ぶ中から、最高を選ぶ。

そういうことだろう。

そんな中でも、やっぱり、人によって好みがあるから、順番が出来てくると思う。

あたしは、これが1番だとかね、僕は、この歌が好きだとかさ。

そんな風に、みゆきさんの歌を好きな順番に並べて行って、今回の映画にするのに、順番を作ったなら、この「Why & No」は、果たして、選ばれしトップの15曲に入るだろうか。

凡は、もっと他の曲が入ると思う。

何がこの歌の代わりに入るかは、人によって違うだろうけれど、きっと、他の曲が選ばれると思うんだな。

でも、この曲が15曲の中に入っている。

その理由は、きっと歌以外にあるのではないかと、これは凡の勝手な推測だけれど、そうは的を外れていない筈だ。

そして、それは、男性スタッフが選んだに違いないのだ。

じゃ、何故、選ばれたか。

ズバリ!その衣装に理由がある。

衣裳と言っても、上半身ではない。

だって、あのフワフワの羽のような衣装は、なんだか、ちょっと変だものね。

そうじゃなくて、下半身の衣装だ。

そう、ゴールドのスパッツだからなのではないだろうか。

詰まりは、みゆきさんのサービスショット。

歌の途中で、みゆきさんは、サッと足を蹴り上げるような仕草をして、衣装の裾を摘まんで、後に回す。

すると、あらまあ、みゆきさんのゴールドのスパッツが、出現するじゃない。

ああ、美しいこと極まりない。

そして、少しばかり、エロい。

衣裳も、少し透ける感じで、バックライトに照らされたときには、脚のラインがくっきりと浮かび上がる。

こんな美しいシルエットがあるだろうか。

あのシーンは、見ている男性諸氏は、きっと、鼻息の風圧が、一気に上がったんじゃないだろうか。

鼻血ブーッってやつだ。

ということで、そんな男性諸氏のために、この1曲を入れたはずなんだな。

その辺のところ、ちょっとスタッフに聞いてみたいね。

ということで、今日また映画を見に行ったことで、みゆきさんの脚についても追記しておきたくなってしまったんですね。

ああ、みゆきさんの脚!!!

と、これ以上書くと、変態になってしまうので、この辺りで置いておいて。

今日もまた、寂しくて、寂しくって、だから、みゆきさんを見に行ったのに、さらに寂しい気持ちになった凡なのでありました。

出来るなら、ずっとずっと、見続けていたいのであります。

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