平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(1112)リメイクしたんや。へえ。ウエスト・サイド・ストーリー。

あーだこーだ

梅田の街を歩く足が、何となく、リズムを刻んでいたかもしれない。
この前の17日、梅田に出て、映画を見て来たのであります。

ウエストサイドストーリー.jpg

最近は、映画館に行くことが、めっきり減った。
でも、今回ばかりは、劇場へ行って見ようと思っていたんだ。
スピルバーグ監督の「ウエスト・サイド・ストーリー」の上演が始まったからだ。

凡は、学生時代は、ミュージカル映画が好きだった。
その頃は、まだ、街には映画館が沢山あって、ミュージカルも探せば結構やってたんだよね。

今は、シネコンっていうのかな、同じような映画館が集まった形態の施設ばかりで、単独の映画館って言うのが少なくなってきた。
まあ、それは仕方がないけれど、そういうシネコンは、大きい箱というか劇場もあるけれど、大概が小さい。

みゆきさんの映画だって、なんばに見に行ったけれども、やっぱり小さい劇場だ。
まあ、それは置いておいて。

今回もどこでやっているか調べたら、梅田でもやっていて、見るとシネコンだけれど、その中でも大きな劇場でやっている。
なので、梅田に行くことにしたのである。

ということで、梅田の東宝シネマズのシアター1。
座席数733ということで、まあまあの広さ。

さて、これから凡なりのウエスト・サイド・ストーリーの感想でも書いてみようかと思うのだけれど、まずは、凡自身、ナンセンスな行為だなと思う。

映画を見て、それについて、あーだ、こーだと、友達と話を、学生の頃はよくした。
それは、実に楽しい時間である。

でも、ある時に、その無意味さに気が付いたんだ。

この世の中には、無数に映画が存在している。
もう、その数は数えきれないだろう、何しろ、無数なんだから。

そんな無数にある映画の中で、凡が見ることのできる数なんて、ゼロに近い数字だ。
映画って、だいたい2時間ぐらいあるよね。

1週間に2本見るとして、1年で105本程度。
50年で、5250本。
たった、これだけしか見ることが出来ない。

まあ、1日に何本も見る人もいるけれどね、まあ凡の場合だ。

無数にある映画の中の、ほんの、ほんの、ほんの、1部。
それを見て、見た映画について論じるのは、意味があるのだろうかと思ったのだ。

他の、無数の映画のことは無視。

そんな事を考えたら、見た映画について、あーだ、こーだ言うのが、面倒くさくなったんだ。

でも、今回ばかりは、大好きな映画のリメイクだから、そこは、あーだ、こーだ、言っても良いんじゃないかなと、勝手に考えているのであります。
というか、そうは言っても、あーだ、こーだ、言いたくなる時もあって、詰まりは、あーだ、こーだ言いたくなる映画というのが、凡のお気に入りということになるのかもしれない。

さて、ウエスト・サイド・ストーリーなんだけれど、凡は、見に行く前から、いささか、批判的だった。

見る前から、批判的というのも変だけど、あの名作を、どう新しく撮り直すんだろうと、不思議だったんだ。

んでもって、見た後の凡の感想を、もう書いちゃいますが、取り直した意味、ゼロだと思う。

果たして、取り直して、何かが画期的にバージョンアップしたのかと考えても、思い当たるところがないのである。

勿論、作品としては、大変よく出来ていると思う。
もし、凡が、旧作(分かりやすいように、敢えて、旧作、新作という言い方をしますが)を見る前なら、メチャ、良かったーっ、なんて感想を書いていただろう。
何しろ、音楽も、歌も、もともとの素材が良いからね。

でも、旧作を見たあとなら、ふうん、そうですか、なんて感動の無い感想になってしまうだろう。

旧作のウエスト・サイド物語は、1961年に公開されている。
今から60年ぐらい前の作品だ。

それなのに、未だ色あせず、見るもののこころを震えさせる魅力がある。
あの作品の魅力というのは、実験的な要素がふんだんに使われているというところだ。

冒頭の導入部分もそうだし、決闘に向かうシーンの、それぞれの俳優が、別々に歌っているのを、つなぎ合わせて合唱のように仕上げていたり。
(音楽的知識が無いので、説明が、幼稚だけど、兎に角、見ていて楽しい。)

その合唱のシーンは、今回も使われていて、なんだ、同じかとガッカリするのだけれど、そこらへんは、敢えて、スピルバーグが、同じようなテイストにしているのかもしれないが、でも、同じやんと思ってしまうのだ。

新作では、プエルトリコの移民には、ラテン系の役者を多用して、リアル感を出しているようである。
旧作では、ジョージ・チャキリスが、顔を茶色にメイクしたりしたのを批判されたのを受けての配役だろう。

或いは、現代の社会的な差別運動を考えてのことかもしれないが。
ナンセンスだ。

そんなことをすること自体が差別だと思わないのだろうか。

それに、リアルを求めるなら、アクション映画や、ホラー映画は、どうなるんだ。

というか、人種の問題に絞っても、映画や、演劇というのは、どんな国やアイデンティティーの人も、自由に他の国やアイデンティティーの役を演じることが出来るというのが、最大の魅力である。

自分が属している国、民族、宗教、社会的立場、そんなリアルな役しか演じられないとなったら、一気に映画という世界が色あせてしまう。

それと、もうひとつ。
誰でも気づく点は、新作は、この差別や偏見、それに、現実社会の構図、背景、そう言ったものを色濃く前に出している。
ナンセンスだ。

それがために、役者のセリフが、饒舌になって、かつ、説明的になっている。
伝えたいことを誤解なく伝えたかったのだろう。
でも、そんなことは、ミュージカル映画以外でやってくれ。

ミュージカルはね、見終わった後、映画館を出た時に、何故か、自然と足がステップを踏んでいたり、作中の歌を口ずさんでいたりするような、楽しさがなければいけないのである。

交差点で踊るシーンには、何故か途中で、黒人の子供と白人の子供が出てきて、端っこで踊ったりするんだ。
唐突に、まるで付け足したかのように、登場するのを見て、ため息が出た。
何を目指してるんだ。

勿論、差別や偏見をミュージカルにするのはいい。
でも、それなら、全く別の新しいミュージカルを作って、それを伝えるべきだ。
何も、60年前のウエスト・サイド物語を作ら直さなくても良い話だ。

それに比べて、旧作は、シンプルで良い。

テーマも、マリアとトニーの恋愛と、別れをシンプルに描いているし、勿論、人種間の争いも描いているのだけれど、最後に、トニーが殺されたシーンで、マリアが言った「憎しみが人を殺す」(記憶なので、言葉が違っているかもしれません)に、集約させている。
実に、シンプルで分かりやすい。

シンプルというと、トニーとマリアが、結婚式のマネ事をするシーンで、旧作は、「死がふたりを分かつまで。」とセリフで言うのに対して、新作では、セリフではなく歌で言わせている。
なので、最後のマリアとトニーの恋愛と、死との対比が、ボヤけてしまっている。

ミュージカルは、単純な方が楽しいのである。

詰まりは、スピルバーグは、ミュージカルの何たるかを知らないというのが、凡の結論であります。

じゃ、何故、ブログの冒頭に、足がリズムを刻んていたかもしれないと書いたのかというと、なんだかんだ言っても、やっぱり、バーンスタインの音楽が素晴らしいのと、今回の役者のダンスも素晴らしいからでありまして、そこは、素直に、良かったなと思うのであります。

今回の感想は、ただ、1回、見に行っただけで書いたので、色んな所で、勘ちがいしてるかもしれませんが、大まかには、こんな感じであります。

それにしても、映画をリメイクするというのは、よく、その勇気があるねと思う。

リメイクするからには、その前作を大きく上回る内容じゃなきゃ観客も納得しない訳で、でも、リメイクしようとする人は、それを超える自信があるのでしょうね。
実に、羨ましいです。

それに、これは映画じゃなくて、歌の話だけれど、誰かが作って歌っている歌を、他の人が歌って、本人より良かった例を、あまり知らない。
(ちょっと、リメイクとは、ニュアンスが違うけれど。)

その最たるものが、みゆきさんだ。

みゆきさんの曲は、やっぱり、みんな歌いたいのだろうと思うのだけれど、色んなテレビ番組で、他の歌手が歌っているのを、或いは、正式にCDにしたりしているのを見かけるが、みゆきさんより良いなと思う人はゼロだ。

「糸」や「ファイト!」などは、中でも人気曲で、沢山の人が歌っているが、みゆきさんより素敵だなと思ったことは、今までにない。

まあ、みゆきさんが好きだから、そう思うのかもしれないが、言ってることは、そうは、間違っていないと思う。

というか、歌っている人が可哀想に思えてくるのだ。
自分より上手い人がいるのに、よく、そんな平気な顔で歌ってられるねと。

まあ、悪口になってしまうので、ここでやめといて。

そうだ、みゆきさんが、誰かのために書いた歌は別だけどね。
たぶん、その人をイメージして書いているだろうから、やっぱり、貰った人が歌うのがベストに違いない。

工藤静香さんなどは、沢山、書いてもらってるけれど、やっぱり、工藤静香さんが歌うのも、素敵なんだな。
他の歌手の方もね、その人のために書いた歌は、その人が歌うのが似合っている気がする。

勿論、どの曲も、みゆきさんが書いたんだから、セルフカバーは、これはもう、ピカイチだけどさ。

そんな事を書いたのではありますが、誰かが歌っている歌を、他の人が歌うのは、これはリメイクとは言わないので、今までの話に関しては余談。

でも、問題は、映像だ。
みゆきさんも、自分で作った脚本で、歌を使用した劇を作っている。
所謂、夜会だ。

みゆきさんの夜会は、全部、オリジナルだ。
なので、今後、そのみゆきさんの脚本を、別の人が、新たに書き直して、新しい夜会を作るかもしれない。

そんなことも、今後、無いことはないだろう。
そうした時に、やっぱり、リメイクした作品より、オリジナルの方が、良いと凡は思うのだろうか。

というか、もし出たとしても、見る気にはなれないかもしれないが、もし、見たらどう思うか。
これは、みゆきさんには、「ごめんなちゃい。」と可愛く謝ったうえで、オリジナルより素晴らしい作品に仕上がる可能性はあるだろうと思う。

というか、そうならないと、面白くない。

どんどん、リメイクして言って、更に、面白いものを作って欲しいものだ。
でも、1つだけ断言できるのは、主役は、みゆきさんが最高だと言う事だ。
なので、リメイクも、主役は、みゆきさんでお願いします。

今回のウエスト・サイド・ストーリーにしてもね、新作のマリア役の人も綺麗だったけれど、やっぱり旧作のナタリー・ウッドさんは、可愛いもんね。
これはまた、脱線したか。

というか、さっき、夜会のリメイクが出ても、見る気にはなれないかもしれないと言ったけれども、結局は、オリジナルなんだよ。
今まで言ったことと矛盾するけどさ。

夜会も、みゆきさんが脚本や、色々なことをして、そして、みゆきさんが演じるから最高なんだということ。
たとえ、バージョンアップされた夜会が出来ても、きっと、凡の中では、オリジナルを越える作品にはならないだろうな。

ということで、今回の、ウエスト・サイト・ストーリーの感想は、オリジナルが好きだということになるのでしょう。

と締めくくった後に、追記なんだけど、始めスクリーンに役者が映し出されたときに、旧作とは違う顔なので、違和感がハンパなかったんですが、見終わる頃には、違和感なくなってたので、やっぱり、役者の力量も素晴らしい人ばかりなんだろうなと、これも感想の1つに付け加えたいです。

と、ダラダラな感想になってしまいましたが、最後まで、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

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