平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(882)努力はする必要はない。

この前のブログに、「あれも出来ないこれも出来ないと考えるのではなく、あれも出来るこれも出来ると、出来ることを考えた方が良い」という言葉についての批判的な文章を書いたけれども、それを書いていて思ったことを追加で書きたい。
それは、「努力」という言葉だ。
残酷な言葉だとは思わないかい。
そして、この努力という言葉の意味する行為は、本当は意味のない行為であるということだ。
人は、何かの目標に向かって、努力しなければならないと思いこんでいる人が多いと思う。
そして、努力をすれば、たとえ達成できなくても、目標に近づけると思いこんでいる。
そして、近づけることは、良いことだと思いこんでいる。
それは、偽善的な思いこみでしかない。
努力することイコール善というのは、まったくもって幻想でしかないのである。
努力というものは、出来ればしたくないし、しないで済むなら、する必要は全く以って無い。
そういうものだ。
これは断言できるのであります。
人には、悲しいかな能力の差というものが存在する。
たとえば受験勉強で例えるなら、ある学生は、何時間も塾に通って、夜遅くまで勉強しても、目標の東大だとか、そんな大学に入ることができない。
それに比べて、ある学生は、何もしないでも、易々と軽やかに東大の門をくぐることが出来る。
それが、能力の差っていうものだ。
人は、能力という側面においては、平等じゃない。
毎日、必死になって勉強している学生に対して、東大に受かるためには、もっと努力しなきゃ、或いは、親や教師なら、もっと努力しなさい、というだろう。
残酷だ。
努力しても得られない場合があるということを教えるべきだ。
そして、努力することは、決して良いことでもないし、無理だと思えば、すぐに諦めなさいと教えるべきなんだ。
これは勉強でなくても、スポーツでも、仕事でも同じだ。
プロ野球の選手になりたいなんて目標を持っても、出来る人と出来ない人がいるんだ。
それを、誰でもが努力をすれば成功するかのような言い方で、「努力しなさい。」というのは、何かが欠けていると思う。
そんなことを言いたいなら、どういう方向へ向かって努力するのかも教えてあげるべきだ。
そこまで努力が必要だという人がいるならね。
昔のテレビの放送で、子供たちがプロ野球選手に質問をするという企画を見たことがある。
子どもが、「どうしたら、野球がうまくなりますか?」なんて、子供らしい質問を投げかけた。
すると、プロ野球選手が、答えた。
「正しい方向に向かって、(或いは、正しい方法で、だったかもしれない)練習しなさい。」だった。
さすがだなと思った。
何かを上達するには、練習、ここで努力と言い換えても良いのだけれど、それが必要だ。
でも、重要なのは、その方向だ。
違った方向に向かっていくら連取しても、それは方向が間違っていたなら、目的には近づけない。
というか、遠ざかってしまう害となる。
素晴らしいプロ野球の教え。
努力も方向が間違っていれば、努力じゃなくなる。
でも、ここでもまた言うなら、そんな正しい方向へ向かって努力しても、出来る人と出来ない人がいるってこと。
でも、出来ないからって落ち込む必要はない。
それが、その人が本当にやりたいことだったならね。
出来なくても、開き直って、大らかにプロを目指して練習を重ねればよい。
人の目なんか気にする必要はないのである。
ここで、前回のブログの続きとなるのであります。
重要なのは、何をやりたいか、何をほしいか、それだけだ。
そのやりたいこと、欲しいものに向かって進む姿を、他人が見たら努力しているように映るかもしれない。
でも、そんな他人からの見え方なんて、クソくらえだ。
まあ、褒めてくれているんだったら、有り難く、その言葉を頂いておいても良いけれどね。
そのやりたいことに向かって、ただやればよい。
それが努力なのかどうなのかってことは、領域外だ。
努力なんて言葉は、我知らずで、練習すればよい。
きっと、その練習は、楽しいだろうし、自由だろう。
そして、目標が達成できなくても、「ああ、出来なかったな。」とおおらかに思えばよい。
仕方がないんだと思えばよい。
少し話は変わるけれども。
エジソンの有名な言葉に、「天才は、1パーセントのひらめきと、99パーセントの努力である。」というのがある。
人は、これを努力の大切さを説いていると解釈する。
でも、本当は、まったく逆で、1パーセントのひらめきがなかったら、99パーセントの努力も無駄になるという意味だそうだ。
詰まりは、世の中には、報われない努力が無数にあるということだ。
ただ、この元となった言葉の、perspirationを、発汗と訳さずに、努力と訳すことで、イメージが限定されてしまっているのかもしれないけれど。
兎に角、世間で、このエジソンの言葉を、努力は大切と解釈してきたのは、努力は善だという固定観念が働いていたからであることは間違いがない。
誰でも、努力は良いことで、その良いことをすることは、たとえ成功しなくても、良い行為であるという固定観念。
日本人らしいといえば、日本人らしい考え方。
結果じゃなくて、途中を重視する。
途中というか、他人に、どう見えるかを気にする。
普通の人にとって、重要なのは、どう努力したかではなく、どう努力しているように他人から見えるかだ。
しかし、そんなことは、虚しいと思わないかい。
自分が、そこにない。
詰まりは、前のブログと同じことを言いたくなる。
自分のやりたいこと、欲しい物が重要なんだと。
そんでもって、それを得られなくても、仕方がないということ。
やりたいことに向かって進むことは大切だけれど、その姿が他人にどう映るかなんて関係はない。
失敗したなら、失敗したなと思えばよい。
そんでもって、根をあげたくなったら、それはそれで、さっさとしっぽを振って逃げればよい。
目標を立てたなら、最後までやり通すなんてことは、これまた全く以って必要はないのである。
無理なら諦める。
それもまた良いじゃない。
んでもって、それでも諦めきれなければ、これまた他人の言葉に何か耳を貸さずに、目標に向かって進めばいい。
その時に、苦しむとか、辛いとか、そんな感情が湧き出てくるかもしれないけれど、それは仕方がないものね。
こんなことを書いて来て、ふと思った。
みゆきさんは、どんな努力をしてきたのだろうかと。
どんなツライ思い、苦しい思いをしてきてたって、それは、誰にも解らないよね。
それは、みゆきさんじゃなくても、誰でも同じ。
でも、みゆきさんだけは、1パーセントのひらめきだけで、軽やかに曲を書いてきたと思いたいな。
んでもって、みゆきさんに、努力について聞いたら、「努力って、どうやったら良いの?」なんて、トボケテほしいな。

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