平 凡蔵。の 創作劇場

恋愛ストーリーや、コメディタッチのストーリー、色んなストーリーがあります。
どれも、すぐに読めちゃう短編なので、読んで頂けたら、うれしいです。
日々のブログは、この下にありますので、こちらも見てくださいね。

創作劇場は、ここをクリックしてください。⇒⇒⇒

散散歩歩。(633)こどもの日。そして野崎詣り。

今日はこどもの日。(これを書いている時点では、もう6日ではありますが。)
そして今はゴールデンウイークの真っ最中。
こどもの日とは、、「こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日」として国民の祝日に決められたそうですね。
それはそれで良いのだけれど、さて、それでどうした、と言いたいのであります。
こどもの人格を重んじるのは、それはそれで良い。
こどもの幸せをはかるというのは、それはそれで良い。
そして、母に感謝するというのも、良いに決まっているだろう。
でも、その趣旨を推進するために、どこかで誰かが、何かをしたのだろうかというと、何もしていないのじゃないだろうか。
日本中を探せば、誰かがやったかもしれないし、どこかでイベントがあったのかもしれない。
でも、日本中、ゴールデンウイークだといって浮かれているのが、ほぼみんなの現状だ。
とはいうものの、凡は今日という日に何かをするべきだと言いたいのではないのです。
こどもの日の趣旨については、それは改まってするものではなくて、毎日すればよいだけのことだからです。
別にこどもの日の今日じゃなくていい。
明日も、明後日も、その趣旨に基づいて日々をおくればいい。
詰まりは、その毎日することが今の時代は重要なのであります。
凡も朝の報道バラエティーを何とはなしに見ることがあるけれども、最近特に目につくのが児童の虐待だ。
それは、他人の子供だけじゃなくて、自分の子供にまで、精神的に肉体的に、暴力をふるう。
しかも、それが死に至る場合もある。
可哀想じゃない。
悲しいじゃない。
子供の虐待については、昔はこどもを間引いたり、或いは、貧乏で学校にも行けずに働らかなければいけなかったり、或いは、人身売買されたり、もっといろんなことがあった。
なので、過去と現在での状況の比較をしてみないと、良くなっているのか悪くなっているのかは言えないけれど、とにかく言えるのは、子供の虐待はしてはいけないし、そんな状況は異常だということだ。
これだけは、間違ってはいない。
なので、そんな状況を出来るだけ早く改善しなきゃいけないと思う。
そういうことを皆にアピールしていくことが、こどもの日には必要なんじゃないかと思う。
そして、世界には、まだ飢えて死んでいく子供も沢山いる。
だから、今日と言う日は、そんな今の状況を再確認して、また明日から、こどもの日の趣旨を推進していこうと、みんなで意識を統一する日にしてはどうだろうかと思うのであります。
でないと、今のままじゃ、ただ単に休みが増えて、会社を休みやすくなって、遊びに行きやすくなっただけの日になってしまう。
今のこどもの日は、せっかく祝日として制定されたんだから、それはそれで大いに休めば良い。
旅行に行ったり、美味しいものを食べたり、好きなように休めばよい。
休みなんだから。
凡だって、そうしたい。
でも、改めて趣旨も何かの形で考えた方が良いと思う。
というような、偽善者的な話になってしまいましたので、少し話を変えて。
凡は冒頭から「こどもの日」とひらがなで書いてきた。
これは凡も知らなかったのです。
今日の今日まで、「子供の日」と書いていました。
なんでも、「こどもは、7歳までは神様の預かりものとされていたので、神仏への『お供え物』などの『そなえ』『供する』という意味の常用漢字の『供』を使用し、『子供』と表記されてました。しかし、一部の団体から『供』という漢字は『大人の手下』という感じがするという声が上がったためひらがな表記にしたそうです。また一説によれば、こどもにも読めるようにひらがなにしたともいわれています。」ということだそうです。
(日本文化いろは事典より。https://iroha-japan.net/)
くだらない。
いくら漢字をひらがなに変えても、もとの意味は同じなんだから、ひらがなに変えても意味がないと思うのです。
たとえ、そういう意味から発したものであっても、昔はそうだったという話で良いのじゃないだろうか。
今はそんなことないのだから。
どう思いますか。
と、そんなことを考えていたら、この説明に引っかかるところが出てきた。
「こどもは、7歳までは神様の預かりものとされていたので、神仏への『お供え物』などの『そなえ』『供する』という意味の常用漢字の『供』を使用し」という部分だ。
普通は、それは、昔は7歳まで生き延びることが大変だったから、神様から預かったものとして大切に育てると言う意味だと、誰でもがそう説明している。
でも、果たしてそうなのだろうか。
そこで、凡は違った解釈を試みたくなったのでありますが、それを発表するには少しばかり不謹慎な内容なので、詳しく発表するのは、やめておこうと思う。
少しだけ触れると、1つは、女の子は7歳になると「帯解(おびと)き」として、大人になる儀礼があるということから発した解釈。
そして、1つは、本当にお供えとしての子供という解釈。
など、どうもエゲツナイのばかりだ。
どうも最近は、「知的好奇心の扉・TOCANA」というホームページのせいで、思考が、ひん曲がってしまっているようであります。(https://tocana.jp/)
ここで話をガラッと変えまして、今日のこどもの日に、凡とミニボンは、大阪の野崎というところにある慈眼寺( じげんじ)へ行ってきました。
といっても、慈眼寺といって解る人は、大阪でも、ほとんどいないのじゃないだろうか。
大阪の誰でもが解る言い方で言うと、「野崎さん」である。
文楽の『新版歌祭文』の中の野崎の段の、お染久松の物語で有名である。
毎年5月1日~8日までの期間に、全てのものに感謝をする無縁経法要が開催されていて、野崎詣りとして、この期間にみんなお参りにいくのです。
そういう凡も、野崎詣りは、初めてなのであります。
ますは、JRの学研都市線で野崎駅に行く。
駅を出ると、もう目の前から縁日の屋台がずらっと並ぶ。
背伸びをして見ると、ずっと先まで人で埋まっている。

画像

最近は縁日の屋台といっても、人も少なく、活気のないところが多いのですが、この野崎詣りの縁日は、人も多いし、また屋台も多いし、それになんといっても、みんなその屋台で買い食いをしたり、金魚すくいをしたりと、結構にぎわっているんですね。
こんなににぎわっている縁日は久しぶりだ。
凡も楽しくなってくる。
人が多いので中々前に進まないのですが、それでもお寺まで到達。
今回は、ただ単に、家内安全と健康をお祈りしたのであります。
何しろ、お参りするのに3列になって順番を待たなきゃいけないので、そうそう長い時間お願いすることもできないのです。

画像

ふと境内の出店を見ると、靴下のPOPが吊り下げられていた。
後姿が7歳若く見えるそうだ。
お姉さんによると、社長は10歳と書きたかったそうだが、それは何でも広げすぎということで7歳になったそうです。
しかも、後姿だ。
前は、自分で何とかしてということらしい。
そんな靴下をミニボンが買った。
広島大学だったか、この靴下をはいてコケタ人はいないという実験結果があるそうです。

画像

お寺の横手には、お染久松の碑があって、誰かが手を合わせていた。
でも、凡は、あのお染久松はフィクションだったのじゃないだろうかと、首をひねりながら見ていた。
果たして、どうだったかな。

画像

そんなことをして、帰り道は、屋台のフランクフルトだとか、焼きそばを食べながら帰ったのであります。
そういえば、何とも大勢の子供がお菓子を買ったり、金魚すくいなどをしたり、楽しんでいた。
少なくとも、この野崎詣りに来ている子供たちは、こともの日の趣旨を全うしているんだね。

画像

=========================================
平 凡蔵。へのファンレターや
       お褒めの言葉は
sansanpopo@tairabonzou.jp
=========================================

コメント

  1. ゆけむり より:

    全然偽善者的な話じゃないですよ
    もっともな話だと思います
    >世界には、まだ飢えて死んでいく子供も沢山いる
    自分はこの事が一番辛いんです
    食べるのが好きなだけに、食べられない子供たちが大勢いる事を考えると本当に考えさせらます
    ここで書いてしまうとなんだかいやらしくなっちゃいますが、自分は24時間テレビにはあまり賛同しませんが、アフリカの飢餓に関する事には賛同しています
    それと共に国連は何をしているんだと声を大にして言いたいです!
    国連も先進国も多少は援助しているんだろうが、まだまだ足りない
    大陸間弾道弾1発で何人の子供の命が救えるだろう?
    なんて事を時々考えちゃいます
    でも偉そうな事を言っている自分も、身を削ってまで援助はできない小さな人間ですしね・・・

  2. 凡蔵。 より:

    ありがとう、ゆけむりさん。
    私も同感です。
    私も、食べることが大好きなので、「うまい。」なんて舌鼓を打っている間にも、食べることができなくて、苦しんでいる人がいると思うと、喉が詰まるときがあります。
    とはいうものの、私の美味しいと食べることと、苦しんでいる人がいるとということに因果関係がないと理由をつけては、いつも「美味しい。」とうなりながら食べているんですけれどね。
    でも、一番大切なのは、そういう意識を持つということじゃないかと思うんです。
    何もそれに意識を向けないのと、意識を向けるのと。
    そして、私も何も出来ないですが、出来ない中でも、出来ることがあればやるということしかないんじゃないかとも思います。
    最近は、援助なども出来るチャンスというか、システムもありますしね。
    食料なども、余っているところには、余っていますしね。
    米なんかも、どんどん奨励して増産して、それを国が買って、そういう国に回せば良いと思うんですね。
    というようなことを思うんですが、これを文章に書くと、
    どうも、自分が何も出来ていない分、お尻がムズムズして気持ち悪いんですよね。

タイトルとURLをコピーしました