平 凡蔵。の 創作劇場

恋愛ストーリーや、コメディタッチのストーリー、色んなストーリーがあります。
どれも、すぐに読めちゃう短編なので、読んで頂けたら、うれしいです。

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散散歩歩。(631)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(239)

阪急の塚口駅の前にある塚口サンサン劇場の前から5列目の中央あたりの席に座っている。
後ろを振り返ってみると、若いといっても40代ぐらいのカップルと、他に男性と女性、半分半分で合計にしたら10名ぐらいの人がいた。
総じて一人で来ている人は年齢が高い。
155席の映画館で10人なら、これは空いている。

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(映画館の入口のドア)
これから上映されるのは、中島みゆきさんの夜会の映画、「橋の下のルカディア」だ。
橋の下のアルカディアは、一昨年の暮れだったか、実際の夜会を見にいった。
そして、この劇場版も、以前に2回見たのであるが、みゆきさんのメール配信で、また追加で上映されることを知ったので、今日も来てしまったのである。
4月29日のことです。
何故2回も見たのに、また来たのかというと、みゆきさんを大画面で見たいからである。
塚口サンサン劇場は、それほど広い映画館ではないが、それでも自宅のテレビよりも大きく映るし、音量も隣り近所を気にしないで聞くことが出来るからだ。
それにしても、みゆきさんは美しい。
もう凡は、ストーリーだとか、歌だとか、共演者だとか、そんな事は、どうだって構わない。
ただ、みゆきさんの姿をウットリと眺めている。
それだけだ。
それだけで、凡は、みゆきさんへの愛おしい気持ちで満ち満ちて溺れそうになってしまう。
アップ、アップ。
助けてー、溺れちゃうー。
なんてね、そんな感じだ。
先日送られてきた「なみふく」の会報誌に、今秋からまた一昨年にやった橋の下のアルカディアを上演すると書かれていた。
とにもかくにも、みゆきさんに会える、ただそれだけが嬉しい。
みゆきさんのことだから、また前回の内容をさらに磨き上げてみんなに披露してくれると思う。
素敵だし、素晴らしい。
それにしても、みゆきさんって、見かけによらずパワフルだね。
昨年もアルバムを出して、それから今年にかけて「一会」というコンサートをやって、毎月オールナイトニッポン月イチもやって、さらに家庭での、これは推測だけれど家族のお世話もして、それらをこなしての今年の秋の夜会なんだものね。
素直に尊敬してしまう。
凡なんか、恥ずかしくて愛してるなんて言えないよ。
何もない、というかマイナスだらけの愚で凡なわたしがいるのであります。
そんな時に思う。
今さっき、愛してるなんて言えないと言ったのですが。
凡は、みゆきさんのことを愛してると書くことは、あまりしない。
何故なら、「愛」という言葉には、いろんな意味が含まれているからだ。
詰まりは、そこで愛という言葉を使う場合、凡の気持ちが、どんな意味なのかという肝心なところが、ぼやけてしまう。
凡が、みゆきさんに対して抱いている思いは、欲と執着に凝り固まった恋心である。
それは、成ることの難しい切ない恋である。
愛という言葉の指すところは、どうも高等な心理的なこころの活動のように感じる。
でも、凡の場合は違うんだね。
ならば、愛っていうと、どういうものがあるかと言うと、まず動物的な生理的な愛がある。
ただ、これは愛と言って良いものか。
男と女が、惹かれあい、求めあうというところの心の衝動。
ただ、これが愛なら、生物はすべて愛を持っていることになる。
野に咲く花も、ミジンコも。
道端で野良犬がお尻とお尻を引っ付けているのも愛。
うん、あれは、うらやましいね。
そして、もっと精神的な部分で言うと、その人を独り占めしたいという独占欲。
これも、愛の1つのこころの発動だ。
これらの2つに関しては、凡のみゆきさんへの愛に近いものがある。
凡が、みゆきさんに求めるものは、動物的な愛は置いておいて、詰まるところ独占欲なんだ。
それから、もっと精神的な部分が他者に向かうと、家族愛のような相手を思いやるような感情になる。
そして、最終的には、他者のすべてを受け入れて癒したいと思うようになる。
これが博愛だ。
このこころの在り方が発動されたものが、マリア様の愛なんだ。
そして、みゆきさんの、全ての人に対する気持ちもこれなのである。
あまりにも、凡の愛とみゆきさんの愛のギャップの大なることかな。
そこで、少し前に書いた、みゆきさんを素直に尊敬すると書いたことだ。
凡は、みゆきさんを尊敬する。
その理由は、上に書いた。
でも、そこで思うのだけれど、尊敬はするけれども、何かしっくりこない。
果たして、男性が女性を好きになった場合、尊敬と愛は両立するのだろうか。
これが女性が男性を好きになった場合は、両立する場合もあるようである。
男の先生と、女の生徒が、尊敬から愛に変わって結婚に至るという話も巷では聞く。
でも、これが男女逆ならどうだろう。
男は女性に尊敬されたいと思っているので、それが逆なら、気おくれしてしまって、愛どころじゃなくなるだろう。
何てことを書くと、「凡って、そんな風にしか考えられないんだ。器小さいな。」なんて思われるだろう。
そう、凡なんて、そんなもんだ。
でも、ここでは一旦、男女についての違いは置いておきたい。
広げ始めた風呂敷を再度、こそこそとたたむ凡。
尊敬とは、その人の人格や、行動や、業績に対して、敬い讃えることである。
そこには、倫理的に清く正しいというイメージがある。
それにたいして、凡のみゆきさんに対する愛は、独占欲に凝り固まったドロドロとしたこころの叫びである。
そこでだ。
尊敬と愛は両立するのかと言う話に戻るんだ。
詰まりは、清く正しいものと、ドロドロとしたものが相容れるのだろうかということなんだ。
凡が、みゆきさんを尊敬しつつも、独占したいと考えた時に、何かしっくりこないものを感じるのは、そこなんだろうと思う。
ここで断っておきたいのだが、ここで言うのは尊敬であって、憧れではないのです。
憧れと愛は、好きだと言うところの、こころの根の部分は同じだと思うからだ。
そこで、さっき、愛について書いたけれども、愛には上に書いた以外の愛もある。
夏目漱石の小説「三四郎」の中に、Pity is akin to love.という言葉が出てくる。
これを、作中で「可哀想だた惚れたって事よ」と訳す場面が登場する。
この訳の良し悪しについては置いておいて、これは可哀想だと憐れむこころは、恋の始まりだということである。
詰まりは、同情から生まれる愛。
これは解る気がする。
みゆきさんの歌う時の表情に、「哀れ」な女に見える表情、或いは、声の表情をする場面がある。
色んな歌があるけれども、例えて言うなら、「化粧」の時の、「バカだね、バカだね、バカのくせに、ああ、愛してもらえるつもりでいたなんて」という部分。
この部分を聞くたびに胸がキューッと締め付けられるような気持ちになっちゃうんだ。
もし凡が、そばにいたなら、1瞬で、もってかれちゃうだろう。
或いは、顔の表情でも、「あたしって、アホやなあ。」「なんで、こんなアホな女が生まれてきたんやろ。」なんて表情をするときがあるんだ。
あれには、やられてしまう。
もう、抱きしめてあげたくなるんだ。
そんなことを考えると、哀れという感情と愛が近いものだと頷ける。
そして、凡はみゆきさんに対して哀れを求めているのかもしれない。
それで、さっきから書いている尊敬だけれども。
尊敬と哀れも、これもまた両立しないこころの動きなのである。
だから、哀れの愛であっても、みゆきさんへの尊敬と、これまたシックリトこないのである。
それなら、凡はみゆきさんに対して、尊敬と愛のどちらの気持ちが強いのかと自問してみたくなる。
それは、愛だ。
でも、それだけじゃ正確じゃない。
みゆきさんを、尊敬もするし、憧れもするし、哀れだとも感じたいし、守ってもあげたいし、それに対して、凡は、アホだし、優柔不断だし、何もないし、マイナスだし、愚だし、凡だし、人並み以下だし、どうしようもない意気地なしだし。
でも、そんなことをひっくるめて、そしてどうしようもない劣等感を抱きつつも、そんなものはドブにでも捨てて、開き直って、そして素直に大声で叫びたい。
「みゆきさん、好きですと。」
勿論、ここは「愛」という曖昧な言葉ではなく、好きだと素直に言うのであります。
塚口サンサン劇場での、橋の下のアルカディア劇場版の上映が終わって、みんな外へ出て、普通のみんなに戻っていった。
あの人たちは、みゆきさんに対して、どんな愛を抱いているのだろうか。

※以前に「無償の愛」について書いたことがあります、ぜひ読んでみてくださいまし。

凡は映画館を出て、ドムドムでハンバーガーを食べた。
最近、減ったね、ドムドム。
ということで、今回もグダグダの内容でありました。
今度、ブログに加えて、フェイスブックとインスタグラムを始めました。
どこまで続くか分かりませんが、もし縁があったら、見てくださいましね。
とはいうものの、メインはあくまでもこのブログで書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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(阪急梅田駅の水飲み場。凡は何故か水飲み場が好きだ)

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