2月23日。
夕食後、住友病院のデイルームにて、徒然なるままにアイパッドに向いて書いています。
今年の中島みゆきさんのコンサート一会も、もう終わってしまった。
凡が最後に見たのは、最終日の1回前の今月の9日である。
それから、2週間。
まだ、凡の脳みその中にみゆきさんの残影が残っているとも思えるし、もう細かいところまでリアルに思い出せないとも思える。
どちらにしても、凡にとっては寂しくて、寂しくて。
それは、凡がみゆきさんを求めることを止めるまで、これからも続く悲しい葛藤である。
こんなブログを書いている凡がだけれど、昨年の12月、凡の同級生と一会の会場で会った時のことだ。
正確には言葉としてあっているかどうか自信がないが、凡のことを評して「最近、ちょっと変になっているよ。」というようなことを言った。
同級生ならではの、凡への忠告だろう。
ありがとう!
冷静に考えるなら、それはいたって正確な観察かつ忠告である。
とはいうものの、そこは凡なのである。
今、この病院のデイルームで消灯までの時間をボンヤリとすごしていると、その言葉がどうにもダメだなと思うのであります。
何とも中途半端だ。
とはいうものの、凡はもともと、極めて何事も中途半端である。
そいういう意味では、ぴったりだ。
でも、これからの凡にとっては、これじゃダメなんだ。
まずは、「最近」である。
凡がみゆきんさんを好きになったのは、2012年の秋だ。
ある意味、みゆきさんを好きになったのも最近なのであります。
しかし、大切なのはこれからなのであります。
最近の凡はちょっと置いておこう。
なので、この忠告を、つまりは最近という言葉を凡は「これから」と置き換えて解釈することにしたい。
凡のこれからについての、同級生の忠告と捉えたい。
そんでもって、次の「ちょっと」である。
これがイケナイ。
これが中途半端なのである。
同級生が凡のことを「変になっている」という、その程度を「ちょっと」だと言う。
この場合の変というのは、凡の考え方や行動やということである。
そして、その考え方や行動の意味するところは、そうさせる原因は、みゆきさんへの愛である。
いや、愛というような清らかなものではないかもしれない。
ただ、みゆきさんが好きだという、その一点である。
そのみゆきさんへの好きにだという気持ちから発した「変」が、「ちょっと」ということはありえない。
というか、あってはいけないのである。
もちろん、この「変」という解釈が凡と同級生に違いがあるのは、これは前も書いたかもしれないけれど、それはあるのだけれれど、また後で考えたい。
そして、凡に対して気兼ねした「ちょっと」なのかもしれませんが。
普通に考えたら、もちのろん、そうなのですが。
それも置いておいて。
そんでもって、その「ちょっと」である。
もし、この「変」が世間一般で使われている意味の、常軌を逸しているとか、変態だとか、ストーカーかお前は、なんて意味であっても、たとえそうであっても、凡はちょっとは嫌だ。
ちょっとだけ変なのは、ダメなんだ。
それは、みゆきんさんへの好きだからという一点があるからだ。
なので、ここは凡的には「ちょっと」ではなくて、これからの凡への期待を込めて「大いに」と捉えたいのであります。
みゆきさんへの愛から発した「変」だもの。
詰まりは、「大いに」「変」が、理想なのです。
ここで話が少し変わるけれど。
凡は今回は鼻の手術で住友病院に来ている。
手術の前日から手術が終わって次の日までは、やっぱり落ち着かなくて、家から入院中に読もうと持ってきた本も、手に取りはするものの、目は活字を追うも、意味は頭に入ってはこなかった。
それが、少し落ち着いて、何冊かを読んだ。
その中に内田百間さんの「恋日記」という文庫本がある。
家の棚にあったけれども、ページを開くことのなかった本だ。
今回はちょうどいいやと持ってきた1冊だ。
これは、百閒がさんが16歳の時に、友人の妹の清子さんへの恋慕を綴った日記というか記録のようなものだ。
清子とは、のちのち奥さんになる人です。
16歳の頃の文章なので、凡が好きな百閒さんの文章とは少し違う。
ただ、その文章の匂いというか、性格から出る理屈っぽい書き方は、この時から見える。
日記のようなものだから、初めは読むのが面倒臭いと思っていたのですが、読み進む内に、何となくその百閒さんの行動や考え方のなかに、というか16歳の百閒さんのということなのですが、凡のみゆきさんへの恋情と重ね合わせて見て、同質のものを、これは大いに感じてしまったのであります。
曰く、ストーカー気質。
清子さんの髪の毛を、それとはなく手に入れて持って帰ったり、名刺をクスネテ持って帰ったり、そんでもって、そんな風にして集めたもののリストを作っていたり。
ただ、凡と百閒さんが全く違うのは、百閒さんの場合は相手がそこにいて、得られたものも確実に相手のものだということだ。
それに引き換え、凡の場合は、みゆきさんはここにいなくて、しかも1ミリの接点もない。
いや、接点がないどころが、遠く遠く、そして遠く離れている。
しかも、みゆきさんは凡のことを、認識すらしていない。
悲しい。
しかし、凡だってもし、みゆきさんがそこにいたなら。
百閒さんと清子さんのように、隣り合っていたなら、凡も百閒さんと同じように、みゆきさんの髪の毛を、こっそり本の間に挟んだりしているかもしれないのである。
そんな意味で、凡は百閒さんの趣味嗜好と合致する部分のあることを感じたのであります。
ただ、それが良いことなのか、或いは批判されるべきものなのか、これは冷静にには判断したくないところではあります。
ということは、凡自身も、ダメだなと思っている証拠であるのかもしれない。
とはいうものの、凡はそれをしないだろう。
みゆきさんの髪の毛を持ち帰ったり、そこまではしない。
何故なら、それは1番みゆきさんに嫌われることだから。
みゆきさんに嫌われるでもしたら最悪だ。
凡はみゆきさんに気に入ってもらえるなら、一日中気をつけの姿勢で立っていてもいい。
触れることも、喋ることも、見ることも、気に入って貰えるなら、しないよ。
ただ、恋する気持ちで気が狂ってしまうかもしれないが。
この日記を読んでいると、百閒さんの書いていることは、毎日、毎日、同じようなことで、清子さんがこっちを見て笑ったとか、何かしたときに手が触れたとか、そんなことばかり書いてある。
それで、あーだ、こーだと、清子さんや周りの人と関係を妄想しているのであります。
この恋日記は違うけれども、随筆なんかの百閒さんの文章は、一見ごく普通の言葉で書いてあるんですけれど、読んでうまいなあと思っちゃうんですね。
そんでもって、同級生の忠告に戻らなきゃけいません。
さっき書きかけた「変になっちゃってる。」だ。
この場合、普通では、これまた変態的なニュアンスで使われることが
多いだろう。
おそらく、血液型のA型とO型と、AB型と、それとジュンサンダースのようなアールエッチマイナス型の人は、そういう悪い意味に捉えるに違いない。
詰まりはB型を除いてはね。
この「変」という言葉は、ときには「変わっている」という風にも使う。
この「変わっている」という言葉は、B型人間にとっては最上級の褒め言葉なのであります。
詰まりは、同級生が言った「変になっちゃってる」も、これは最高の褒め言葉に聞こえてしまうんです。
しかも、たとえ悪い意味の「変」であっても、それは凡そのものじゃない。
凡は、変なんだ。
詰まりは、凡自身ありのまま。
そんなことを考えて、同級生の忠告を凡流に解釈したらこうなるんだ。
「最近、ちょっと変になっちゃってる。」というのは、、、
「最近」これは「これから」
「ちょっと」これは「大いに」
「変になっちゃってる」これは
「凡らしく、変になってください。変わった人になっちゃってください。」
となるのであります。
なんて、こんな事を書いている時点で、もうこれはダメな人間でありますね。
さて、明日はいよいよ鼻に詰められたガーゼを抜くのでありますが、噂によるとエライ痛いという話を聞くのであります。
今から痛いときに何て叫ぶか考え中であります。
追記
何てアホなんや、凡は。
これ書くの忘れてたやん。
みゆきさーん。
お誕生日おめでとう!
昨年は、何かオリジナルのものをヤマハまで送ったんだよね。
でも、今年は送らなかった。
でも、ハガキぐらいと思って病院で書いたのは書いた。
それも、ペンも種類がないから3色ぐらいで。
何を書いたかというと、本当は似顔絵を描こうと思ったんだよね。
でも、才能なくて全く描けない。
仕方なく、「へのへのもへじ」って書いて、矢印で、みゆきさんのつもりって書いたんだ。
そして、出したんだ。
どう考えたって、みゆきさん嬉しくないよね。
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