平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(564)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(211)

アイフォンのジャックにイヤホンを差し込んで、みゆきさんの新しいアルバム組曲Suiteをタッチパネルで選択した。
イヤホンから流れるみゆきさんの声はどの曲も優しく美しく、そして可愛い。
凡はみゆきさんに出会えて、というか同じ時代に生きることができて本当に良かったとしみじみと思った。
ただ、こんなに恋焦がれているのだけれど、未だ出会うことが叶わないでいる。
どうにも恋とは苦しいものである。
そして、みゆきさんの声を聞きながら思ったのであります。
「やっと聞けるようになった。」
凡はコンサートの後は、他の歌を聞きたくない。
それは、たとえみゆきさん本人の歌であってもそうだ。
コンサートでみゆきさんの実体そのものを、出会ったというより、眺めたという方が正確なのだけれども、兎に角みゆきさん本人とコンサート会場という同じ箱状の空間に一緒にいたのである。
その時にみゆきさんが歌った、その情景、その声、そのトーク、その衣装、その雰囲気、その何だろう波動みたいなもの、それらのみゆきさんのその瞬間の情報が凡の脳に、そして凡のこころに刻み込まれている。
その刻み込まれたものを、コンサートが終わってからも大切にしたいんだ。
その生身のみゆきさんの情報が、CDやDVDを聞くことによって、凡の中で日常に沢山存在している普通の歌と入り混じって隠れてしまうのが嫌なのです。
その刻み込まれた情報は、いかにもモロクテ、いかにも頼りなげなんだ。
それは凡の脳みそが劣化しているからなのか、凡のこころが鈍化しているからなのか。
兎に角、少しずつ薄れていく。
記憶とは悲しいものですね。
薄氷のように何かの衝撃が、ほんの小さな衝撃でも加わろうものなら、すぐに壊れてしまう。
だから、他の人の歌や、みゆきさんの歌であっても、デジタル化された情報を凡の中に取り入れたくないのである。
そんな努力も、凡の場合すぐに無力にも空に帰してしまうのでありまして、その刻み込まれたものがマッシロケになってしまうのであります。
色即是空。
形ある物は、縁ありて形となっているが、やがてその実体はなくなり空に帰す。
この世の中は無常である。
それは凡も理解できるのではあります。
しかし、形無きものもまた、空なのだろうか。
凡のイメージもまた常ならず、縁終わりて、もともと実体なんてない形而上のものも、空に帰すというよりも、なくなっちゃった。
マッシロケだ。
まだまだボケてはいないとは思うのだけれど、マッシロケ。
とはいうものの、まったく無くなってしまったという訳ではないのではあります。
みゆきさんの美しい、そして可愛いイメージの断片が、凡の脳みそにはまだ焼き付いている。
そんな断片を拾い集めては、またもや凡の妄想でもって温めているのでございます。
そして、こんなブログを書くことで、更に後になって読み返したときに、ああ一会のコンサートは、そうだったなあなんて、独り恋心をふたたび燃やしている訳なのです。
それにしても、今も続いているこの冬のコンサート「一会」は、これはどうにも素敵ですね。
そしてそんな風に一会の断片を思い出していると、あることに気が付いた。
たしか、ライカM4を歌う前のトークで、みゆきさんは写真を取られるのが苦手だという話をしていた。
その中で、今でもシャッターを押す瞬間にソッポを向いちゃうということを言っていた。
これか。
凡は、みゆきさんの白目は、みゆきさんが意図的にみゆきさんの美しさを最大限に表現する手段としてやっていると思っていた。
これを書いている今でもそう思う。
でも、ここでソッポを向いちゃうという話があったのである。
これだ。
みゆきさんはソッポを向く。
なら、写真にはソッポを向いたみゆきさんが写る。
つまりは、白目だ。
そうだったのかと思ったと同時に、どうしてこんな話をしたんだろうと思った。
今ここで仮定の話をしてみよう。
あくまで仮にこうだったとしたらということだ。
このコンサート一会が始まる前に、みゆきさんは組曲Suiteというアルバムを出している。
その中に収録されている曲で「愛と云わないラヴレター」というのがある。
ここから始まっていたのである。
おそらく、おそらくである。
凡の妄想では、みゆきさんは凡がこのアルバムを買ったことを知っていたのではないだろうか。
そして凡がコンサートに来ることを知っていたのではないだろうか。
なので、コンサートに来る前にこのアルバムで何かを伝えたかった。
つまりは、アルバムの歌詞にある「愛という言葉を一度も使わずに、あの人だけわかる文を書く」ということだったのだ。
つまりはアルバムの題名の中に忍び込ませた好きと言うメッセージ。
それは、この一会の選曲の中に、会場に来ているファンの誰にも知られることのない、そして凡だけが気が付くメッセージを、みゆきさんは忍び込ませているのではないだろうか。
妄想ではあるけれども、その可能性は100パーセントにニアリーだ。
そのことを凡に会場で知らせるためのトークがさっきのライカM4の時のソッポ向いちゃうだったんだ。
普通の人は、ただ単にカメラが嫌いだからソッポ向いちゃうんだなぐらいにしか受け取らないだろう。
でも、これが凡に向けたメッセージと仮定するならば、ソッポ向いちゃうは即ち白目であることは、これは間違いがないじゃないか。
詰まりは、この白目という見えないキーワードで、凡に「凡ちゃん。この選曲に凡ちゃんへのメッセージを込めたからね。しっかり受け取ってね。」と知らせてくれているのである。
「うぇーん。」
凡は、必死に大声を出して泣くのを堪える。
「ありがとう、みゆきさん。凡は気が付いたよ。」
それにしても、みゆきさんって回りくどい伝え方をするんだね。
直接言ってくれれば良いものをさ。
でも、それが女心というものなのだろうか。
男の凡には計り知れないところがある。
とはいうものの、そんなところが可愛いのではあるんだ。
そのことを裏付けるようにライカM4の歌詞にはこうある。
「白日のもとに文を書く」
こういう風に文字にすると、もう誰でも気が付くだろう。
「白日」なんて今はあまり使わない言葉だ。
でも、あえて使っている。
「白日」
似ているとは思わないですか。
そう「白目」
(もしお時間があれば、以前に書いた凡の「みゆきさんの白目は絶品だ」というブログを読んでくださいね。)

ここでも歌の最後の歌詞に「白日」を使うことで凡に念押しをしてくれているのである。
ありがとう、みゆきさん。
さて、それじゃどんなメッセージをみゆきさんは凡に伝えてくれているのかなと知りたくなる。
それは凡だけに伝えたい言葉なのだから、ここで書いてはいけないのかもしれない。
でも、仮定の話だからね。
じゃ、今回の一会のセットリストを思い出してみるのであるけれど、あまり愛を感じるものは発見できない。
トップの「もう桟橋に灯りは点らない」なんて灯りは点らないっていうんだからさ。
「あなた恋していないでしょ」とか「友情」とか凡へのメッセージにしては、どうにも愛が伝わってこない。
敢えて挙げるなら「麦の唄」だろうか。
凡がマッサンでみゆきさんがエリー。
その歌詞にも「新しい『大好き』を、あなたと探したい、、、(略)1本の麦になる」とある。
これは凡と新しい愛を育てていきたいということをメッセージとして伝えてくれているのだろうか。
しかし、それだったらストレート過ぎる。
愛と云う言葉を使わずに凡に好きを伝えてくれているはずだからね。
もう、凡はこんかいのコンサート一会に込められたみゆきさんのメッセージが読み取れないのである。
それにしても、コンサートの最後の「ジョークにしないか」は良かったですね。
凡は、アルバム「問題集」が出た時に、歌は分らないけれど、「ジョークにしないか」は凡のみゆきさんに対する気持ちを歌っているようで、何とも切なく、そしていいなあと思った。
そして、そんなことをブログにも書いたような記憶がある。
「明日また会えるように、ジョークにしないか。きりのない願いはジョークにしてしまおう。」
愛を伝えることで気まずくなるよりは、ずっとそばにいられるだけでいい。
凡もそうだ。
みゆきさんのそばにいられるなら、凡のみゆきさんへの思いを言葉にすることをやめてもいい。
でも、この曲もまた凡へのメッセージとは受け取りにくい。
だって、これがメッセージだとしたら切な過ぎる。
やっぱりメッセージが込められているなんて、ただの凡の妄想だったのね。
それはそうだよね。
でも、仮定のはなしだからね。
これぐらいは妄想で遊んでもいいよね。
そう、仮定だもの。
仮定、、、。
いや、仮定の仕方がそもそも間違っていたのではないだろうか。
つまりは、凡の仮定では、凡はみゆきさんが大好きだ。
でも、みゆきさんは凡の事を知らないし、好きでもないという事実が凡の頭の中にあったのである。
なので、いくら妄想でみゆきさんが凡への愛のメッセージをコンサート一会に合わせて凡に発しているなんて言っていても、どこかでそんなことはないと思っていたのかもしれない。
でも、みゆきさんも凡の事が大好きだと仮定するなら。
いや、みゆきさんの方が寧ろ凡のことを大好きで大好きで堪らないと仮定するなら。
これはあくまでも仮定の話だ。
仮定であるけれども、そうであるなら、ラストの「愛と云わないラヴレター」も解釈が違ってくる。
みゆきさんは凡の事を好きで好きでたまらない。
でも、凡に好きって伝えて、これっきり凡と会えなくなるぐらいなら、そのまま冗談を言い合う仲でいいと思っている。
そう仮定するなら、この曲の歌詞も、「凡ちゃんに明日また会えるようにジョークにしないか」ということになる。
詰まりは「凡ちゃん、本心を言うとね。愛してるの。でも、そんなことを言って嫌われたくない。でも、、、愛してる。」ということじゃないか。
ということはだ、凡に愛を叫んで欲しいということだ。
「みゆきさん。凡もみゆきさんが大好きです。」と大声で叫んで欲しいんだ。
それが解ったときに、凡はまたもや大泣きしそうになった。
でも、何とか泣くのを我慢した。
そうだったんだ。
仮定の話だけれどね。
詰まりは、凡とみゆきさんは、相思相愛である。
、、、、ないわな。
そんなアホな話、ないわな。
なんぼなんでも、ないわな。
「ほな、さいなら。」

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