平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(496)アイラブユー・ほたえてくれ!みゆきさーん。(172)愛しすぎるためにおこる死。

何気に、みゆきさんのホームページを見たら、、、と何気に何気にという言葉を使ったのですが、この何気にという言葉を書くのに凡自身が思っていたほど抵抗はなかった。
今までは絶対に何気なげなくと書いていたのですが、それはやっぱり今年読んだ本の著者の田中克彦さんの影響かもしれない。
言葉は、語源的に正しいことよりも、今の人が通じる意味が大切だと言う。
それを聞いた時には、驚いたし、何か少し楽になった。
とはいうものの、いまだに凡は一生懸命とは書けない自分がいる。
ということは置いておきまして、何気に見たみゆきさんのホームページだ。
NEWSの欄に、なみふく入会のご案内という文章があって、その文章を何気に見たら、こんなことが書かれていた。
今、なみふくに入会すると、「今秋から東京・大阪で開催予定のコンサートチケット先行受付の対象となります。」とあるではありませんか。
こんなスゴイ内容をスラッと書いてどうするの。
凡は、京阪電車の座っていた座席から立ち上がってバンザイしてしまいそうになったじゃない。
凡は、みゆきさんがどのぐらいのペースでコンサートをするのか、よく解っていないけれど、凡がみゆきさんを好きになってからは、ずっと毎年、コンサートや夜会工場、そして夜会と続いてたものだから、今年はひょっとしてやらないのかなあって寂しく思っていた。
でも、今年もやるのね。
それにしても、みゆきさんって、見た目よりもずっと精力的だよね。
コンサートは、それほどでもないにしても、昨年やった夜会なんて、それ用の曲も作らなきゃいけないだろうし、もちろんその前にストーリーも書かなきゃいけないし、それに演出もしなきゃいけないし、やること多すぎると思うんだ。
それをやっての、今年のコンサートだからね。
バイタリティーがあるのか、もともと天才なのか。
どちらにしても、スゴイとしかいいようがない。
また、凡とみゆきさんの距離の遠さを思い知らされてしまう。
とはいうものの、凡は既に「愚愛権」を行使しているのでありまして、凡のような愚で凡であっても、みゆきさんを愛し続けるのであります。
ホームページの文章によると、東京と大阪でやるらしいので、コンサートより、一昨年やった夜会工場のようなものなのだろうか。
どちらにしても、凡にとっては、どうでもいい。
みゆきさんに会えるという、そのことだけなのであります。
同じ場所に、みゆきさんがいるんだという、その同時感、その同場所感、それがすべてだ。
歌や演出は、それについてくるオマケのようなもので、それはみゆきさんにお任せするだけだ。
それにしても、見に行くとしても、やっぱり前の席がいいなあ。
出来るだけ近い席がいい。
今までの最短記録は、前から5列目だ。
やや端っこの5列目だけど、これはかなり近い。
とはいうものの、凡にとって、5列目からのみゆきさんは、遠く遠く感じられた。
今までで1番近いんだけれど、遠いんだ。
演者と観客。
その違いを、これもまた、嫌と言うほど思い知らされたのであります。
とはいうものの、本当に凡の目の前にみゆきさんがいたら、どうだろう。
みゆきさんとデートしたいんだから、そんな想定もしておく必要がある。
手を伸ばせば、抱きしめられる距離にみゆきさんがいるんだ。
ほのかにみゆきさんが使っているボディソープの香りが漂っている。
目の前のしっとりとした、みゆきさんの唇。
そして、こころをトロカセテくれる笑顔。
もう足なんて感覚がなくなって、足腰カクカクだろう。
手もブルブル震えちゃうに違いない。
みゆきさんって呼びかけたいんだけれど、「み、み、み、みゆ、みゆ、みゆ、みゆゆーーー。」
なんて、もともと滑舌が悪い上に、舞い上がってしまって言葉が出ないだろう。
なので、こんな時は、喋らない方が得策だ。
もし、前夜に王将の餃子なんて食べていたら、どうするのよ。
にんにく臭い息をするわけにはいかないのだ。
すると、息を止めちゃうよね。
たとえ、王将の餃子を食べていなくても、みゆきさんが目の前にいるんだから緊張で息が出来なくなっているに違いない。
すると、どうだ。
息が出来ないと人間は生きていくことができない。
でも、緊張で息が出来ない。
普通なら生きようという本能が働いて、最終的には息をしてしまうだろう。
でも、この場合の凡は普通ではない。
みゆきさんを愛しすぎるために、その本能すら働くことを忘れてしまうのである。
人は、呼吸が止まると、1分で意識の焼失がおこり仮死状態になる。
そして、6分で半数の人が死亡すると言う。
思ったより呼吸が止まってから死に至るまでの時間が短いんですね。
それなら、凡にとって、みゆきさんによる死、つまり「みゆきさん致死率は100パーセント」じゃないか。
それでも、敢えてみゆきさんに会う事を願いながら進んでいくのであります。
だって、好きなんだものね。
みゆきさんを愛しすぎる為におこる死は、これは許されるものでありましょうか。
みゆきさんに会えること、それは即ち死であるとするならば、それ以降の2回、3回と、何度もみゆきさんに会うことができないという不条理がそこに存在してしまうことになる。
何という残酷な出会いであるか。
しかし、息をして生き続けて何度もみゆきさんに会うためには、みゆきさんを究極に愛しすぎることを放棄しなければいけない訳で、それはみゆきさんを、少しだけ嫌いになるというプロセスが必要となってしまう。
みゆきさんを生きて愛し続けるために、みゆきさんを嫌いになる。
もう訳が分からないよ。
とはいうものの、死を選ぶのか、生存を選ぶのかは、その時になって考えるしかないだろう。
それに、凡にはある計画があるのである。
精神安定剤だ。
世の中には、そんな薬もあるという。
だったら、それに頼るのが正解だ。
その時になったら、先生に相談して、薬を処方してもらおう。
と、凡は楽な方法しか選ばないのであります。
情けない凡であります。

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