平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(486)本の縁。(1)

本というものは、不思議なもので、本屋などでちょっと手に取った本との縁は、その時に繋がないと、もう縁が切れてしまって、後から、そうだあの本読んでみたいなと思っても探せなかったりするものだと凡は思っている。
だから、面白いなと思った本は、本の価格と手許との相談だけれど、その場で買うことも多い。
そんな訳で買うのだけれど、持って帰ってから読まずに置いてある本の山を見て、凡のダラシナサと遅読を恨めしく思うのであります。
そんな本の、すぐに買って読んだ本と、山に積まれて置いてあった本を摘み上げて読んでいる本の話であります。
まずは、なかなか読まずに、最近になって手に取った本。
「差別語からはいる言語学入門」田中克彦著。

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この本を書棚から手に取ったのは、その動機は覚えていない。
ただ、この本を買おうと思った理由は覚えている。
パラパラと手に取ってページをめくっていると、ある文字が目に入った。
「隻」である。
この字は、セキと発音して、今では船を数えるときに使うぐらいだけれど、以前は「隻手」だとか「隻眼」だとか、普通に使われていた言葉だ。
これは、2つあるもののうちの、1つと言う意味で、「二つでセットになって完結すると考えられているモノのうちの、一方が欠けていることを積極的に示す役割をもつ要素であるから、その示す意味じたいが、差別的な効果を発揮しやすい。」と説明する。
「片足」とか「片目」などと同じだという。
と書かれているけれども、その言葉を批判したり肯定したりする内容ではない。
その言葉を単純に考察して、その可能性を考える内容である。
凡が、このページに目を留めたのは、みゆきさんの曲に凡が好きな「二隻の舟」というのがあったからだ。
みゆきさんは、この隻を「そう」と読ませている。
つまりは、もともとは2つで1つの舟の、その1つひとつという意味で、それは、みゆきさんと凡なのかなと、また妄想してしまうのでありますが、そんなページに目を留めて、それで買ってしまったのであります。
そして、先日何気なく読んでみようかと手に取ったら、意外にも面白いんですね。
差別語について書かれているというよりは、差別語を通して今の日本語についての、やや偏見に満ちた自説を、あーだ、こーだと展開しているような本なのですが、読んでいて言語学というのも中々に面白いなと感じさせてくれる本である。
ただ、言語学というのは、追求すればするほど、頭がおかしくなってしまうほど、ややこしいものだなとも思わされるのではありますが。
そんな自説を、皮肉的な表現や、1人ボケのような表現を入れながら書かれているので、読み物としても意外に面白い。
本人は、漢字なんていうものは、廃止すべきだというような説をお持ちのようなのですが、書かれた文章は、漢字も難しい外来語も沢山盛り込まれていて、あんた、どっちやねんと突っ込みたくなる。
ただ、漢字を多用する人や、国語審議会を批判していたようなので、そこはどうも、凡は賛同しかねる部分である。
何故なら、みゆきさんは1999年に国語審査会の委員をしていたんだものね。
みゆきさんを批判するものは嫌いなんだものね。
とはいうものの、みゆきさんをべた褒めする人にも、嫉妬しちゃうんだけれどもね。
どうも、恋する中年の気持ちは複雑ではあるのでございます。
この本との縁は、幾分か凡の言葉に対する束縛の紐を緩めてくれたような気がする。
それは、言葉というのは「知識ではなくて意識を重んじる」ということが書かれていたからだ。
歴史的に、語源的にどっちが正しいというよりも、どっちの言葉の方が話し手のココロの中に実感として生きているのかということが大切なんだという事だ。
このことを著者は「共時性」という言葉で表現している。
これを読んだ時に、いつもブログを書くときにこだわっていたものが、それほどまでにこだわる必要のないものだったのかもしれないと、気が楽になったのです。
例えばで言うと、「一所懸命」だ。
凡は、子供の頃にこう書くように習った。
試験でも、こう書かなきゃ不正解になる。
先生の赤いサインペンで、バッテンをつけられる筈である。
えっへん。凡はまあ優秀なので、これは間違うことがないので、バッテンを貰うことがない。
なので、間違ったら赤いバッテンをつけられるであろうと想像して書いた訳だ。
まあ、そんな子供時代の自慢話をしても詰まらない。
なので置いていておいて。
その「一所懸命」が、今は「一生懸命」と書くように変わってきている。
テレビの字幕でも一生懸命と画面に表示されている。
これに凡はすごい違和感があった。
「あれって、間違いやん。」
とテレビや雑誌などでこの漢字を見かけるたびに、そう呟いていた。
でも、どちらが今の人のココロの中に実感として生きているかというと、これは「一生懸命」だと言わざるを得ないのかもしれない。
得ないのかもしれないというのは、凡ぐらいの年齢の人は、たぶん「一所懸命」の方がココロに生きているのではないかと想像するからだ。
ただ、そう思うと、またもや凡のココロの中に、迷いが生じる。
今度から、一所懸命と書くときに、凡の中では一所懸命なので、凡の思うように一所懸命で書き始めた文字を、でも、文章というのは相手に伝えるための道具である、だからここは凡の中では一所懸命だけれど、相手の為に一生懸命と書くべきだと思い直して、行ったん書いた文字を消して一生懸命と書き直すのだけれど、それでも一生懸命と書いた文字を見て、凡的に何だかしっくりこない気持ちを、仕方がないんだと納得させるココロの努力が必要となってくるのである。
どうにも落ち着かない気分だ。
それよりも、凡は、次に一所懸命と書かなきゃいけない文章の脈絡になったときに、どちらを使えば良いんだと、今から気が気ではないのである。
どうも、この本に縁を得たばかりに悩みが増えてしまった。
「何気なく」というのもそうだ。
若い人は、これを「なにげに」と言う。
これも始めは気になったが、今では凡も心穏やかに聞くことができる。
ただ、こんな言葉は沢山あって、さて書こうと思ったときに悩みだすとどうしていいか分らなくなる。
助けて欲しい。
そうなったら、そこで躓いて先に進まなくなる。
そんな時は、もうビールでも痛快に飲み干して、楽天的な凡に変身してから、鼻歌でも歌いながらキーボードを打てばいいんだ。
とはいうものの、凡の場合は、ビールは1杯では終わらな訳で、その内に酔いつぶれてしまうのが日常である。
そうなると、どっちにしても文章が書けなくなるのだ。
先日、大阪の天王寺にある一心寺というお寺に行ってきた。
3月が父親の祥月命日だから、お参りに行ってきたのです。
その境内には本多忠朝の墓があり、酒を飲みすぎて仕舞いには死んでしまった忠朝が、酒で苦しむ人を救ってくれる酒封じの神として祀られていて、みんなに信仰があるそうです。

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そこで、凡もビールを飲みすぎて、酔いつぶれて書けなくならない様に、しゃもじ型の絵馬に願い事を書いた。
「酔いつぶれませんように。」と。
そして、絵馬を掛ける時に、さらにお願い事を書き足した。
「宿酔になりませんように。」と。
しかし、今から思うと、ここは「二日酔いになりませんように。」と書くべきだったのだろうか。
やっぱり面倒くさい。
、、、と、2冊の本、すぐに読んだ本と、山に積んであってしばらくして読んだ本について書くつもりが、山に積んであった方ばかり書き過ぎてしまったので、すぐに読んだ本は、この後に書くとします。

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