平 凡蔵。の 創作劇場

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散散歩歩。(372)どこかへ行ってきてと言われて出かけた金沢の旅(3)

金沢の地図を見ていると、美術館や資料館、兼六園や金沢城公園など、1日や2日では、到底回りきれないほどの見どころがある。
さて、凡はどこへ行けばよいのやら。
ホテルの机に向かって地図を広げる。
兼六園は、昔むかし行ったことがあるし、今回は止めておこう。
パラパラと冊子の地図をめくっていると、目に留まった場所があった。
「鈴木大拙館」
名前だけは聞いたことがあるけれども、まだその人物に触れたことがないし、書かれた文章も読んだことがない。
そうだ、とりあえずは鈴木大拙館に行ってみよう。
バスで香林坊まで行って、そこからぶらぶらと歩いて行くことにした。
途中に、石川四高記念文化館やお城の石垣を見ながら、金沢21世紀美術館の横を通る。
金沢21世紀美術館の前には、赤や黄色、青の色のついた透明な板で作ったオブジェが飾られていた。
「へえ、これが21世紀なのかなあ。」と思いながら、通り過ぎたが、この場所がこの後、凡の生まれて初めての、屈辱的な経験をする舞台となるとは、この時は知る由もなかった。
この屈辱的な経験については、帰り道にご報告したいと思います。
近くまで来て、入り口に少し迷ったが、鈴木大拙館に到着。
中に入ると小さな受付がある。

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この建物は、金沢出身の仏教哲学者である鈴木大拙さんの考えなどを紹介するために造られたもので、谷口吉生さんという有名な建築家が設計されたそうです。

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建物は、大拙さんを紹介する展示空間と、大拙さんの考え方を知る学習空間と、それらのことについて考えてみる思索空間とで構成されていて、その中心に水鏡の庭という池のようなところがある。
まずは、展示空間。
その部屋に入ると、普通の資料館から比べると驚くほど展示物が少ない。
大拙さんの書が数幅壁に掛けられている程度だ。
その中で、凡が気に入った書。

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「無事」
凡は、以前から、この無事という言葉が好きだった。
何事もなく平穏な状態。
ただ、凡は、この無事という言葉に、少し違った解釈をしたい。
人間は、生きている間は、ただ平穏な状態の時ばかりではない。
寧ろ、毎日が苦しいし、とはいうものの、苦しいだけでなく楽しいこともある。
また、善もあるし、悪もある。
また、強もあるし、弱もある。
また、愛もあるし、憎悪もある。
そんな、いろなものが雑多にあるのが、今まさにダイナミックに生きている人間の世の中なのであります。
そして、それらの雑多なものが流れている人間の世界を、そのまま流れるものとして受け入れて、日々の生活をしていくのが、無事というとだと思う。
だから、苦しくても無事。
病気でも、無事。
楽しくても、無事。
みゆきさんに嫌われても、無事。
、、、、いや、それだけは無事じゃない。
「いやだーん、いやだーん。それだけは、いや、いや、いやーん。」
凡は、その無事という言葉を使った、ある言葉のように生きられたらなあと思う。
その言葉は、「無事如意。」です。
これは、「無事」という言葉と、「百事如意。」という言葉を掛け合わせた凡が作った造語です。
百事如意とは、すべてのことが、自分の意のままに動いて行くという意味の言葉です。
でも、凡は凡です。
そして、愚であります。
そんな晴れやかな言葉とは縁がない。
無事如意とは、意のごとくになるものは、何もないという意味でありまして、凡にはぴったりと当てはまる言葉ではあります。
なのですが、そのまた別の意味で、さっきの色んな雑多なものを、苦も楽も、そのまま受け入れていくことも如意であるという、何か開き直った清々しさも含んでいるとも解釈できる言葉だと勝手に思っているのです。
苦しみに凝り固まった体の中を、渓谷から吹き上げる爽やかな空気が、体の1つひとつの細胞の隙間を、さーっとすり抜けていく、そんな感覚だ。
鈴木大拙さんも、この無事についての解釈をされているのですが、それについては知らない。
日を改めてゆっくりと大拙さんの文章を読んで、その意味を知りたいと思う。
さて、鈴木大拙館だ。
その次のスペースは、学習空間。

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贅沢な空間に、椅子とテーブルが空間の隅に置かれていて、壁には本が並んでいる。
ここで大拙さんの書物を読んでくださいということだろう。
奥の壁はガラスになっていて、庭が綺麗だ。
そして、次のスペースに向かうには、外に出るのだけれど、広い水たまりというか池のようになっていて、真っ平な石の底に、浅く澄んだ水が張られている。
「水鏡の庭」というそうだ。

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この空間を見るだけでも、建築家の力量が解る。
自然と足が止まって、水面に見入ってしまう。
時折、池の中央からボコッっという音がして、水面に波紋が広がる仕掛けになっている。
その波紋が、淡くか弱く、それでいて、遠くまで広がっていくのは、大拙さんの思想が、世界に広がっていくことをイメージさせるようにしているのか。

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水面に映る借景の木々も、また実体ではない像だけれども、その水面と一体化している。
しばし、立ち止まって、何も考えずに見とれてしまう空間である。
それは、凡だけでなく、来場している人はみんな、ここで何度もシャッターを切っていたので、みんなそうなんだろう。
誰もを、立ち止まらせる空間なのだろうね。
そして、その端に、畳の四角形の椅子を配置した思索空間がある。
さあ、ここで皆さん、仏教的なことや、大拙さんのことについて、考えましょうということだろう。

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「さあ、みんな一緒に考えましょう。ハイ、いち、にい、さん。」なんてね。
とはいうものの、この空間では思索は、凡には無理だ。
あまりにも建築の、配置やら、構成が素晴らしくて、こんなところでは思索なんて出来ない。
それに、わざわざここへ来て、思索する必要もない。
思索なんてものは、いつ、どんな瞬間でも出来るもので、いつもの流れの中で、思索しようとする対象に、偶然か恣意的にか、シンクロして閃くものだ。
家の前のドブにはまって、思索が開けることもあるし、トイレでお尻を拭きながら、考えが深くフォーカスするときもある。
むしろ、そっちの方が、落ち着くというものだ。
だから、ここで思索しましょうという建築家は、きっと素直な人なんだろうなと思う。
あまのじゃくのB型は、こんな仕掛けは、どうも居心地が悪い。
凡がこの鈴木大拙館に入って感じたのは、その建物のデザインの素晴らしさである。
1周ぐるりと館内を回ってから、更にまた、もう1周してしまったほどだ。
でも、その完璧さが、却って大拙さんについての事を、知ったり考えたりする妨げになっているようにも思えた。
そんなことを書いたのですが、凡としては非常に気に入りまして、ここでかなりの時間を過ごしてしまったのであります。

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