陽明門は想像したよりも小さかったが、煌びやかな色合いと、細部までこだわりぬいた意匠が、ドーンと存在感を感じさせる、正しく国宝である。
なのだけれど、小学生が多すぎる。
なので、ゆっくりと見ることもできず、また立ち止まることも出来ない。
門を抜けたら、またもや小学生の坩堝。
それに学校から指定されたカメラマンだろうか、凡の前を急に遮って子供の写真を撮ったり、邪魔である。
それに、先生も、引率は大変なのは分るのだけれど、他の観光客を無視したような振る舞いは、すこしばかり迷惑でもあった。
唐門と御本社は、平成の大修理中で、足場が組まれ、半分工事現場のようでもある。
とはいうものの、御本社の中で説明を聞いて、お参りも済ますことができた。
これで、この旅行の1大イベントの、東照宮へのお参りを達成できたのであります。
めでたし、めでたし。
さて、これからは奥宮に行かなければいけません。
その理由は、奥宮には奥宮にしか売っていない眠り猫のストラップがあるそうで、ミニボンが旅行前に友人から買って来て欲しいと頼まれたそうです。
なので、これは行かなくちゃいけません。
奥宮までの階段は遠く長いのですが、この日光の山の空気が気持ち良くて、意外と楽しく上ることができた。
それにしても、この日光の山は、素晴らしいです。
途中、立て看板があって、「人の一生は重荷を負おうて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず」と書かれていた。
家康の遺訓だそうです。
この「急ぐべからず」ってどういう意味なんだろう。
人の一生は、重い荷物を背負って、長い道を行くようなものだというんですよね。
それは、解る。
人生は、辛いことの連続の連続の連続だ。
常に重荷を背負っている。
いつまでも、いつまでもね。
それなら、急ぐなという理屈が凡には見つからない。
急がなければ、荷物が軽くなるんだったら、急がない。
急がなければ、道が近くなるのだったら、急がない。
でも、そんなことはない。
つまりは、急がなくても、急いでも、どっちでもいい。
どうせ、辛くて長い道ならば、好きなように行けばいい。
苦し紛れに口笛でも吹きながらさ。
だから、急ぐなっていう理由は、どうなのですか。
こんなことを考えるのは、凡に国語の能力がないからでしょうか。
みなさんは、どう思いますか。
或いは、人生のんびり行ったほうが、長生きができるよっていうことなのかな。
それなら、理屈は解る。
そんなことを考えながら、階段を上って行くと、奥宮に着いた。
ここは、凡のように不思議大好きな人にとっては、すごく楽しい場所なんですよね。
家康と天海大僧正の、風水なのか占いなのか、そんな不思議な術に想いを巡らして見物するのが楽しいのです。
家康が亡くなった後に、一旦久能山に埋められてから、1年後にこの日光に祀られるのだけれど、天海が生きていたら、その理屈を聞いてみたいものだな。
そんなワクワクした気持ちで、見物した後は、眠り猫のストラップも無事購入して、階段を下りた。
すると唐門の前は、またまた小学生の坩堝。
しかたなく、流れに従って陽明門をくぐった。
その時だ、「ハッ。」そうだったのかと気が付いたことがある。
陽明門の柱には渦巻き状の模様があるのだけれど、1本だけ上下が逆になっている柱がある。
これは、、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という理屈から、わざと未完成にしてあるそうです。
未完成だから、いつまでもそこに美しく存在することができる。
「そうか、そうだったんだ。」
凡は、この未完成の部分を残しておくことで、永遠の美を残しておくことが出来るという理屈が、あることに共通していることを発見した。
その、あることとは。
コメント
他の観光客を無視したような振る舞いは、すこしばかり迷惑とありますが、これなんですよね一番問題なのは!
こんな事を言ってはなんなんですが、引率する教師の方々も我々の世代とは違うので、子供たちに常識や公共の場での行動を教えるのは無理なのかな・・・
本当はそれじゃあダメなんですけどね・・・
ありがとう、ゆけむりさん。
そうなんですよね。
先生も、先生と言う感じじゃない先生が多いです。
生徒にすごく気をつかっている先生も目立ちます。
教えるというか、、、。
保護者のクレームが最近は怖いですからね。
ついついそうなっちゃうのかもしれませんね。
でも、先生は先生であってほしい気もします。