平 凡蔵。の 創作劇場

恋愛ストーリーや、コメディタッチのストーリー、色んなストーリーがあります。
どれも、すぐに読めちゃう短編なので、読んで頂けたら、うれしいです。

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散散歩歩。(97)困った時の京都。竜馬と親鸞のお墓。

六道珍皇寺から、更に山に向かって歩いていくと、三年坂と清水寺の参道とが合わさる辻に出た。
参道は、観光客の散策ルートなので、沢山の人でにぎわっています。
「きゃぴ、きゃぴー。」
高校生の修学旅行なのかな、今どきは珍しいセーラー服の女の子が数名で参道のお土産屋さんを覗いては楽しそうに笑っている。
少女の長い黒髪がキラキラと輝き、じゃれあう度に、短いスカートの裾が軽やかに揺れる。
「ヤッホー。」
そう叫びながら、両手を万歳して、参道を清水寺に向かって走り出したい衝動に駆られたのだけれど、何とか思いとどまった。
そんな事をして、何の意味があるのだ。
知的な人間は、すべからく自身の行動に意味がなければなりません。
それが大人の男の美学である。
とはいうものの、少女の方を振り返りつつ、しかし、美学を貫くために反対方向の二年坂へ向かって階段を下りて行く。
三年坂から二年坂に掛けては、昔は観光地ではあるけれども、どこかしっとりとした雰囲気があったのですが、今は新しいお店が軒を並べて、京都の何処よりも賑やかな観光地の景観を呈している。
凡とミニボンは、お店を冷やかしながら歩いていった。
面白いなと思うものを、衝動買いするのも楽しい。
衝動買いと言っても、300円とか500円とか、そのぐらいの金額なのですが、それでも、買い物というのは、気分転換になる。
歩きながら、買ったもの。
「舞妓はん、ひぃー、ひぃー」名前が面白いので購入。
683円。世界一辛いと書いてあります。

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ペットボトル入りの抹茶 300円
飲んでみると、甘いグリーンティーだった。

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店頭に耳かきが置いてあったので見ていると、ご主人が、百貨店でお客様のご要望に合わせて作ったら4000円ぐらいするとの説明をしてくれる。
でも、ここで買うと、耳かき350円と、すす竹の耳かき400円。
普通のは柔らかくしなるので、最初はこれで取って、すす竹はやや硬いので、最後に仕上げに掻きだすとよいそうです。

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そんなささやかなショッピングを楽しみながら歩いていると、高台寺の手前に「霊山歴史館」の看板があった。
京都へは何十回というか学生時代を含めると何百回と来ているのですが、そして霊山歴史館も知ってはいたのですが、行ったことはありませんでした。
そうだ、今日は折角だから行ってみよう。
かなり急な坂道を、背中を丸めながら濡れないように傘を差して、登っていく。
歴史館の横には護国神社があって、その横の山には、坂本竜馬や中岡慎太郎、桂小五郎などの幕末に活躍した人のお墓があります。
これは歴史好きな人には堪らない場所ではないでしょうか。
これまた折角だから、先に竜馬のお墓を見てみよう。
とはいうものの、このお墓を見るのには、入山料が300円必要だ。
しかも、入り口が電車の改札口のような、ゲートになっている。
今から幕末に思いを馳せながら、竜馬のお墓を見に行こうというのに、このゲートに300円を投入して通るのは、どうも不釣り合いな気分になる。

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竜馬の墓は、中岡慎太郎と並んで建っていて、そこからは京都市内が一望できる。
この墓の下に、テレビドラマなどで見て知っている、あの竜馬の白骨があるのだと思うと、本当に竜馬が京都にいたんだと実感される。

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霊山歴史館は、近代的な造りになっていて、幕末の有名な事件などの展示がされていたり、映像で見せたりして、若い人でも面白い内容になっている。
竜馬を切った刀も展示されているので、幕末に興味のない人でも、これは必見です。
歴史館を見学して、さらに円山公園の方角に向かって歩くと、大谷祖廟がある。
そういえば、大谷祖廟も、この前を何十回と通ったことがあるのですが、一度も行ったことがありません。
そうだ、ここも行こう。
大谷祖廟とは、親鸞聖人の、何か所にも分骨されている中の、東本願寺派のお墓です。
因みに、近くに西本願寺派の大谷廟もあるのですが、ここも凡は行ったことがありません。
一応、お墓に向かって手を合わせる。
南無阿弥陀仏。

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見たところ、お墓というよりは、四角い箱のような形をしたものです。
しかし、凡はお墓に向かって手を合わせながら、何と人間と言うものは自分に都合の良いようにしか行動できない生き物であることかと思ったのであります。
相手を思って、相手にとって良いことだという理由をつけては、自分の欲というか、自分のしたいことをしてきたのかということを考えずにはいられないのであります。
浄土真宗では、死ぬと同時に、阿弥陀如来さまに救い上げられて、浄土に行けると説いています。
なので、残った肉体というか、骨は、ただ単なる骨なんですよね。
そしてお墓は、その骨を埋めたところを示すだけのものにすぎないのです。
お墓に、ご先祖の魂がやどっているとは解釈していません。
なので、お墓に向かってお祈りをするというのも、浄土真宗的には意味がないと思うのです。
親鸞聖人も、そう考えてらっしゃったに違いないのでありまして、親鸞聖人が生きていらっしゃったら、骨はどこかに捨ててくれって言うに違いないと思うのであります。
であるのに、今、残った人が親鸞聖人の考えを無視して、立派なお墓を建てて拝んでいます。
「ちょっと、そんなんしてくれって、ゆうてないやん。」と親鸞さんも言いたいのではないだろうか。
こういうことは、どこにでもあるようで、キリスト教でも、カトリックだとキリスト様やマリア様の像を拝んだりしているようですが、キリスト様自身は、偶像を拝むことを否定しているはずです。
なのに、一番偉い人の言うことを聞かずに、残った人のしたいことを、教えを無視してやっているのです。
「ちゃうちゃうちゃう。そんなん教えにないで。そやから、ちゃうっていうてんねん。」とキリストさんも言いたいだろう。
でも、そんなことをしてしまうのが、人間の人間臭いところかもしれません。
そして、人間臭くない人間なんて、面白くないのかもしれないのではあります。
気が付くと、雨はすっかり止んでいて、嘘のように晴れている。
折り畳みの傘を、畳んでバッグに入れる。
そして、青い空に向かって、両手を高く上げてジャンプした。
「やっほー。」
時には、意味のない行動をしてみるのもいい。
それが、凡のようなアホの美学であります。

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コメント

  1. とっちゃん より:

    舞妓はん ヒーヒーですか?
    なんだか違うヒーヒーみたいに聞こえるのは自分だけでしょうか

  2. 凡蔵。 より:

    ありがとう、とっちゃん。
    違うヒーヒーは、私には夢でありまして、夢は叶わないものでありまして、辛い味のヒーヒーで我慢であります。
    でも、たまに観光地に行くと、楽しいものが見つかって楽しいですね。

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